フロリダ

もうずっとドタバタしております(泣)。宇多田ヒカルブログに「休みたくなったら、休めばいいんじゃね?」と書いているけど、無理っす。えぇと。2月16日(月)夜のNHK「沸騰都市」の「TOKYOモンスター」は一応、見たけれど、まあ、いいか。そのうち書く。

3月1日(日)朝のフジテレビの「新報道2001」に、建築家の安藤忠雄が出ていて驚いた。その番組には民主党菅直人も出ていて、前回の2月10日「クルーグマン」で書いた「高速道路の無料化」の話や、babyismの誤算-3で書いた「東京湾アクアライン」の話や、Natural World-2で書いた本州と四国を繋いだ橋による「ストロー効果」の話が取り上げられていて、興味津々で僕は見ていたのだけど、「高速道路の無料化」が「ストロー効果」を招くという考え方(「組み合わせ」方)は、民主党の人には無いらしい。まあ、いいか。「政治」を僕の身近に引き寄せて考えてみることはできたかも。

後半は「安藤」特集だった。安藤事務所が「道場」と呼ばれていて、所員はスパルタ的にビシバシと鍛えられていた。とても羨ましいと思った、と言うのも、僕は建築の「企画」と「計画」の事務所の出身で、今は「設計」も手掛けているけど、ほとんど独学なんですよ(泣)。いわゆる「設計」での徒弟的な暗黙知(と継承する責務)が僕には無いんです(泣)。と言っても、別にそれを殊更、重く考えているわけでもなくてw、むしろ、21世紀固有の情報化とCAD化によって、独学がし易い環境が整っていることに留意すべきかも知れない(その良し悪しは別にして)。まあ、難しいのは人に「教える」ときですね、僕が誰かから教わったのであれば、僕が教わったように「教える」ことができるけど、それができないのは辛いかも。

あと、3月1日(日)夜のテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」の「大都会ドブ川の奇跡 2009」が凄かった。感動した。僕の地元(柏市)の大堀川とは大違いだと思った(babyismのX参照)。そして、前回の2月10日「クルーグマン」の記事で、僕の都市理論の「シナリオ」に「環境問題」を利用しようとしていた自分が、急に恥ずかしく思えたけど、とりあえず、社会学者の宮台真司のせいにした(おいw)。*1

では、えぇと。

えぇと…

特に書くことない。

Σ(・ω・ノ)ノ

ドタバタしておりやす。うーん、そう言えば、今年の冬は風呂によく浸かっている。babyismのIntegral Project-3の記事で「冬が苦手(夏はもっと苦手)」と書いたけど、それ加えて僕は「烏の行水」 で、風呂に「浸かる」というライフスタイルが、これまでの僕の人生にはなかった(その割には僕は「温泉」好きだったりするけど、割愛w)。あと、近頃、自宅でも酒を飲むようになった(ビールがうまい)。このブログ(ウェブ日記)の「プロフィール」の画像では、ミッフィー(うさこ)が小生意気に「酒」とか書いているけど*2、基本的に僕は自宅ではほとんど酒を飲まない人だった。たぶん、僕が酒を飲むようになったのは、酔っていない(素面の)状態が、面倒になったからではないかと思う*3。まあ、とにかく、そんなわけで、基本的に僕が「読書」するのは、ほとんど電車の中だけで、そのせいなのか、どうしても読む本が新書やSD選書等の、軽くて小さい本に偏っている、ということに先月、気付いた(ワラ)。

とりあえず、前回の2月10日「クルーグマン」で書いた、「用途混合」型の都市モデルの「シナリオ」を作ろうと思い、それならば、やはり、都市思想家のジェイン・ジェイコブズ*4や、都市経済学者のリチャード・フロリダ*5の理論と「パッチワーク(接ぎ合わせ)」*6すれば良いと思い、リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラスの世紀」(2007年)の次の「クリエイティブ資本論」(2008年)を読み始めたら、(本が重くて)筋肉痛になった(泣)。これはまずい、読めないよ、というか、iPodや携帯電話等の機器はどんどん軽量化・小型化されている輝く21世紀なのだから、これは本が間違っていることにした(おいっw)。

それでも、まあ、とにかく頑張って耐えて読んで、やっと読み終えたと思ったら、リチャード・フロリダの新著「クリエイティブ都市論」(2009年)が書店に並んでいて驚いた。泣いた(泣)。い、いつの間に。その新著の中身は、以前ネットで読んだ「都市経済学者リチャード・フロリダ 『成功のためなら海外移住も検討せよ』」週刊ダイヤモンド、2008年5月28日)と同じかなと思ったけど、とりあえず、買った。(先に別の本を読み始めていたので)この本はまだ1ページしか見てないけど、その1ページ目(日本語版への序文)の冒頭から少し引用する(下記)。

交通網の拡大とテクノロジーの発展によって、私たちは都市から解放され、田舎や山奥、海のそばへ移ることが可能になるだろう――この数十年、いや過去一世紀の大半にわたって、そんな話を聞かされてきた。山荘や浜辺の別荘で在宅勤務できる時代にあって、狭い割には値段の高い物件に家族を住まわせ、長距離通勤に耐えてまで、東京の窮屈なオフィスで働きたいと望む人はいるだろうか。
ほんの数年前、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、トーマス・フリードマンは、「世界はフラットになった。経済競争の舞台は平均化し、住む場所をどこに選ぼうともグローバル経済に参加できる」と公言した。
しかし私は二〇年以上の研究と調査に基づき、「世界はフラットではない」とあえて言いたい。実際、新しい表現も考えた。現実の世界は鋭い凹凸があって「スパイキー」なのである。*7
(「クリエイティブ都市論」、序文、リチャード・フロリダ)

ここで、リチャード・フロリダが言っているのは、例えば、僕が前に8月27日「どこでもドア」で書いたような、情報空間と都市空間の「乖離」*8に対して、多くの批評家があまりにも無関心である、現実が全く見えていない、結論も誤っている、「世の中が変わろうとしているのに、お前は全然わかってないよな、ジョーンズさん?」(YouTube)*9ということですw。

(。・ω・) ジョーンズ?誰?

とりあえず、「クリエイティブ都市論」はまだ読んでいないので、前作の「クリエイティブ資本論」の概要から書くと、リチャード・フロリダは、まず、「人は日々暮らし働く場所をどのように決めるのか(中略)本当に重要な要因とは何なのか」という「根本的な疑問」を提示して、そして、多角的に検討を行って、「雇用」や「家族」や「コミュニティ」の形態が多様化(または「解体」)した現在の「ポストモダン社会」では、「(かつて)大企業が担っていた経済と社会の中心的な組織単位は、いまや場所が担いつつある」、「場所は、だんだんと私たちにとって重要なアイデンティティとなってきている」と述べている。つまり、この本のキーワードは「場所」なのです。では、この本の第12章「場所の力」から少し引用する(下記)。内容は上記の「クリエイティブ都市論」の序文と同じです。

経済や社会生活における場所の果たす役割をめぐる論争で、主流を占めている見解がいくつかある。それぞれがすべての面で相反するわけではないが、一致することもない。おそらく最も有力な見解は、ニューエコノミーが唱える「地理は死んだ」という神話だろう。インターネットや近代的通信・交通網の発達により、もはや人々が共働するうえで同じ場所に「存在」する必要がなくなり、実際にそのような状況が来るという考えである。この「場所の終焉」説は、電報や電話、自動車や飛行機などの技術が登場するたびに唱えられてきた。ケビン・ケリーは、広く読まれている九八年の著書『ニューエコノミー勝者の条件』の中で、「ニューエコノミーは、場所ではなく新しい宇宙に存在している。時が経つにつれ、経済活動はますますこの新しい宇宙へ移動していく」と書いた。(中略)しかし、これほどあてにならない神話もない。人間が依然、密に集住しているのみならず、経済自体(中略)も、(中略)特定の場所に集中し続けている。
(「クリエイティブ資本論」、第12章、リチャード・フロリダ)

更に上記の文に続けて、「場所とコミュニティは、以前にも増して重要な要因となっている。その大きな理由は、経済自体が、ケリーの示唆するように抽象的な『宇宙』にではなく、人々が現実に集まって暮らす具体的な場所に形成されるから(である)」と述べている。そして、リチャード・フロリダは、この「場所の力」に関して、複数の統計(データ)分析の結果を用いたり、経済学者のアレフレッド・マーシャル(「集積状態が経済自体をうむ」)や経済学者のポール・クルーグマン(「規模の経済」)の理論を援用しながら*10、実質的に「無限」*11の資源であるはずの「クリエイティビティ」(創造性)が、「特定の場所に集中」する傾向にある「現実」を次々に明らかにしていく*12。よって、「インターネット」等が発達しても、「世界はフラットではない」、現実の世界は「スパイキー」なのである、なのです。*13

そして、リチャード・フロリダは、では、その「クリエイティビティ」が集中する都市は、どのような都市であるのかを、事細かく検証していくのだけど、一語で表すと、それは「寛容性」(Tolerance)のある都市です。要するに、「ゲイ」や「オタク」が溶け込めて、自分たちの好きなように生きていける場所(都市)である、ということですw。でも、まあ、これはこれで話が長くなるので、また今度に書くとしてw、とりあえず、僕が面白いと思ったのは、リチャード・フロリダは、この本で何度も、都市思想家のジェイン・ジェイコブズの理論(人的資本論)を援用しているということです。とりあえず、引用だけしておきます(下記)。

ジェーン・ジェイコブスの記念碑的な著作『アメリカ大都市の死と生』(中略)では彼女自身が暮らしていたグリニッジビレッジなど、都市部のクリエイティビティや多様性が称賛されている。(中略)ジェイコブスが近隣地域に見たのはまさに個性や差異であり、社会の相互作用であった。ジェイコブスは、こういった地域の奇跡は路上の喧騒にみられると主張している。多種多様な人々が集う路上は、他人への配慮を生むと同時に、クリエイティビティの源泉でもあった。(中略)いまはジェイコブスが描いた社会が勝利を収めつつある。
(「クリエイティブ資本論」、第2章、リチャード・フロリダ)

ジェイコブスの考察は長い間、経済学界からは無視されてきたが、ここ二〇年ほどの間に、非常に高名な研究者からも真剣に取り上げられ、正当性を実証する経験的事実が示されるようになってきた。数十年前、ジェイコブスは、都市が持つ、クリエイティブな人々を惹きつけ、そして経済発展に拍車をかける能力を指摘した。ノーベル賞経済学者のロバート・ルカーチは、人的資本の集中がもたらす生産性向上が地域の経済成長の決定要因と見なし、これを「ジェーン・ジェイコブス的外部性」と呼んだ。
(「クリエイティブ資本論」、第12章、リチャード・フロリダ)

地域の経済成長は、多様性があり寛容で新しいアイデアに開放的な場所を好むクリエイティブな人々が原動力となる。多様性があればその場所は、さまざまなスキルやアイデアを持つクリエイティブな人々を惹きつける可能性が高くなる。クリエイティブな人々が混じり合う場所では、新しい組み合わせを生みやすい。(中略)ジェーン・ジェイコブスはかつて、イノベーションと都市の成長を活気づけるものとして、企業と人間双方の多様性の役割を強調した。ジェイコブスが述べたように、大都市とは、事実上どんな経歴の人でも受け入れ、その人たちのエネルギーをイノベーションや富に向かわせる場所なのだ。
(「クリエイティブ資本論」、第14章、リチャード・フロリダ)

以上っす。*14

ところで、前に12月10日「エソラ」で、「都市」こそが、21世紀における「公共性」の獲得へ向けた唯一の希望だ、と書いたけど、これと接続できるかもな、と思って、「公共政策」に関することを少し調べてみようと思って、経済学者の後藤和子後藤和智*15ではないよw)の「文化と都市の公共政策」(2005年)という本をタイトル買いしたのだけど、大当たりですとても良い本ですw。今はこの本を読んでいる(電車の中でw)。

(。・ω・) 禁酒すればいいのに。

でも、やはり、「公共性」と「経済性」の理論はちゃんと分けたほうが良いでしょう。リチャード・フロリダは主に「クリエイティビティ」と「経済性」の関係を論じているのに対して、この本では「創造性」(クリエイティビティ)の「自律性」*16が提唱されている。その一方で、僕はその12月10日「エソラ」の前半でも書いたように、「ヨーロッパ製」の「公共性」は、日本に馴染まないだろうと考えている。うーん。いずれにせよ、「公共性」と「経済性」の関係は、これから考えていこうと思ってます。とりあえず、またw引用だけしておきます(下記)。

かつては、財政赤字への対策として、工場誘致政策がとられてきた。しかし、この方策がもはや地域の再生にあたって有効でないことは自明であるが、それでは、どのような政策が地域や都市の再生にあたって展望しうるかという点では、内発的な発展や創造的都市など、J.ジェイコブズの流れを汲む議論が行われてきた。本書も、ジェイコブズの「多様性」や「イノベーションインプロビゼーション(即興的な連鎖反応)」が都市発展の原動力であるという見方を肯定的に受け止めるが、さらに、ジェイコブズの時代には、まだ萌芽にすぎなかった文化産業や創造的産業といった創造性が重要な役割を演じる産業に焦点を合わせて、そのイノベーションインプロビゼーションの可能性と都市発展を展望する。
(「文化と都市の公共政策」、序章、後藤和子)

「創造的都市」というメタファーは、物事をどのように見、どのように捉えるかという抽象的なレベルの議論でもあり、同時に、技術、産業、組織、都市デザインなど広範な実体と関わりを持つと同時に、政策論にもなりうる。
(中略)フロリダの提起はわかりやすいが、それだけに、政策立案者によって現実に政策化される際には、(中略)誤りを導くことは、大いに予想されることである。しかし、(中略)創造性に焦点を合わせて物事を見直すことによって、既存の経済学の理論から出発しながら、現実の実態と既存の理論との乖離が浮き彫りになり、理論そのものを再構成するというプロセスを辿っていることは留意してよい。
(「文化と都市の公共政策」、「創造的都市」というメタファー(暗喩)の波紋、後藤和子)

この記事の冒頭で「特に書くことない。Σ(・ω・ノ)ノ 」と書いた割には、予想外に長くなったw。でも、ほとんどが引用文で、つまり、まだちゃんと自分の頭でよく考えていない、まだ整理していないということですね。

あと、「用途混合」型の都市モデルの「シナリオ」は、他にもいくつか考えたのだけど、最も気に入っているのは、babyismのIntegral Project-3の冒頭で書いた、宇宙誕生から約30万年後までは、光と物質は一つの大きな雲のようなものだった、というコスモロジカルでポエティックな「シナリオ」ですw。一応、原初宇宙は光と物質が「混ざり合った」状態であったという意味です。つまり、「用途混合」型の都市とは、自己組織化に抗って、宇宙が誕生して間もない状態を「永続」させる夢を見る、という都市なのです*17。そして、実を言うと、旧ブログのタイトルの「babyism」は、この「誕生して間もない」という意味だったのです!(嘘です、今気付いたw)。いずれにせよ、このようにして「時空」を扱うということ、babyismのIntegral Project-3でも書いたように「時間を空間化する」ということが、「ポストモダン社会」に最も相応しいのではないかとは思ってます(キリッ)。

では、以上でぇす。

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

*1:8月11日「100年後」参照(宮台真司)。

*2:元の画像は「うさこちゃんがっこうへいく」の表紙。ミッフィーのファンの方、ごめんなさい。Airplane House参照(ディック・ブルーナ)。

*3:まあ、音楽で例えると、ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boys)の「Home and Dry」(YouTube)みたいな感じか。忙しくて、君に会えなくて、寂しいよ、でも、僕らはきっとうまく行く、という曲ですw。これ名曲。ちなみに、「Home and Dry」とはこういう意味。また、この曲のプロモーションビデオは、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)が手掛けた(と動画に書いてある)。

*4:12月28日「ノエル」参照(ジェイン・ジェイコブズ)。経済学者の小島寛之「魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則」も参照。

*5:11月9日「マンハッタンのゆくえ(後)」12月1日「雑記4」12月28日「ノエル」参照(リチャード・フロリダ)。というか、リチャード・フロリダは全く書いていなかった(泣)。参照しなくていいっすw。

*6:12月28日「ノエル」1月12日「アルチュセール」参照(パッチワーク)。おまけで、レム・コールハース「Prada Transformer」(2008年)がとても「パッチワーク」的で良い。「くるくるっと転回する感覚」「強引」さ(「無理やり」さ)もある。あと、話はずっと外れるけど、「パッチワーク通信」(2009年4月号)という本を買ったw。この本については、またいずれ書く。

*7:「スパイキー」な世界の図は、リチャード・フロリダのこのページにある。ついでに、上記の「週刊ダイヤモンド」のネットの記事に書かれている「世界経済に君臨する40のメガ地域」の図は、同ページの「Mega-Regions of North America」「Mega-Regions of Europe」「Mega-Regions of Asia」にある。僕が関心を持ったのは、その「メガ地域」の大きさ(スケール)で、8月27日「どこでもドア」8月30日「スロー雷雨」等の記事で、都市空間は「有限」であると書いたけど、「メガ地域」も有限であると思われる。そして、その有限な「メガ地域」の大きさと日本の国土の大きさを比較してみるという視点はとても重要のように思われる。つまり、「メガ地域」は経済のグローバル化によって「都市と地方の格差」が生じることを表しているけれど、同時に、日本の国土全体が「メガ地域」内に収まるのではないかという可能性も表しているのです。これは、「都市」対「地方」という二元的な図式を越えるダイナミックな視点(理論)を獲得する可能性があることを示唆している。2月10日「クルーグマン」参照(国土)。

*8:月尾嘉男ドクター月尾)は、「環境共生型社会のグランドデザイン」(2003年)という本で、「速度という便益でみれば、自動車は20倍の便益を人間にもたらすが、同時にエネルギー消費も20倍」で、「『技術』には多かれ少なかれそういう性質がある」と述べている。それに対して、「情報通信が初めて便益の向上とエネルギー消費が比例しない技術」で、「近代以降は通信技術が圧倒的に発達した結果、『交通』と『通信』が大きく乖離した」と述べている。

*9:ボブ・ディラン(Bob Dylan)、「Ballad Of A Thin Man」(1965年)の歌詞。「クリエイティブ資本論」の第1章の冒頭に引用されている。

*10:12月28日「ノエル」(工場の立地、「経済の原則」、雪だるま)、2月10日「クルーグマン」(高速道路、輸送費、都市への集積)参照。

*11:8月27日「どこでもドア」8月30日「スロー雷雨」参照(無限)。リチャード・フロリダは、「クリエイティビティは実質的に無限の資源」、「クリエイティビティは天然資源のように蓄積し、奪い合い、売り買いができる有形な資産ではない」、「クリエイティビティは継承することも、伝統的な意味で『所有』することもできない」と述べている。これは、8月11日「100年後」で書いた「ひろゆきが語る」の話と近い。

*12:今更でもないけど、東京は「クリエイティブ」な都市である。「東京都への人口移動で特徴的なことは、10代後半から20代前半(15〜24歳)にかけて、大学進学と就職を目指して流入する者が多いことである。雇用を吸収する産業だけでなく、教育、文化、芸術等のさまざまな施設が集中していることが人を集めてきたのである」(鬼頭宏著「人口で見る日本史」、2007年)。

*13:「クリエイティブ資本論」の第17章(最終章)では、この「場所」について、「企業、職業、そして家族までもが流動的になっているために、(中略)均質化する社会のなかで唯一真に不変のものになっている。地図の上に固定されていることで、それらは社会単位として持続していく」と述べている。リチャード・フロリダは「ポストモダン社会」をよく観察しているので、この本は「ポストモダン社会」論としても読むことができる。

*14:宇野常寛は、「新潮(2009年1月号)」の「母性のディストピア――ポスト戦後の想像力(三)」で、「もしあなたが、文化の多様性だとか地理に規定された文化とその歴史の重みだとか、そういったものを主張することで、この<不可視の環境>のもつ政治性に対応できると考えているのならば、その認識は完全に問題のありかを捉え損なっていると言わざるを得ない」と述べているけど、これはリチャード・フロリダの本とはまるで逆である。と言っても、その「不可視の環境」が僕には分からないのだけどねw。日本における反米思想(「アメリカニズム批判」)が「無効化」した現在(「ゼロ年代」)の、「グローバリゼーション」に起因する何からしいけど、その前提もよく分からない。「不可視の環境」とは単に「資本主義」のことではないかとも思える。でも、「普遍的な原理」を発見しようとしているのではないかと見えなくもない点と、日本人評論家が好む「ヨーロッパ製のソファー」に座ろうとせず、あくまで日本の文化(文学、アニメ等)から日本の社会を論じようとしている点は評価している。8月30日「スロー雷雨」9月3日「抹消された「渋谷」」10月2日「別世界性」参照(宇野常寛)。

*15:USD to KRW参照(後藤和智、「東京だけが正義ではない」、と三浦展を批判)。

*16:「自律性」とは、「創造性」(クリエイティビティ)を「経済性」から一旦、切り離すという意味。つまり、「公共政策」によって「創造性」を保護するということ。この本では、「創造性」のある空間(環境)をつくることが、後にそれが「経済性」へ結び付く、という流れをつくる可能性を論じている。と言っても、まだ半分も読んでないけどね。一応、リチャード・フロリダも、「クリエイティブ資本論」では、「クリエイティビティ」は公共財として管理されるべきであるとも書いている。両者の違いは、簡単に言うと、リチャード・フロリダの「創造性」は、あらゆる場面で(レストランの皿洗いでも)発揮されるべきものとしているのに対して、後藤和子の「創造性」は、文化産業(いわゆる芸術、アート)に重点が置かれている。

*17:音楽で例えると、サザンオールスターズ「愛の言霊〜Spiritual Message」(YouTube)と、PUFFY「アジアの純真」(YouTube)かな。歌詞を追うと、そう思えなくもないw。一応、歌詞はそれぞれ、「生まれく抒情詩とは 蒼き星の挿話/ 童っぱラッパ 名も無い花のために/ カゴメカゴメ 時間よ止まれ」と、「地図の黄河に 星座を 全部 浮かべて/ ピュアなハートが 誰かに めぐり会えそうに 流されて行く/ 未来の方へ」です。この2つの曲は、1996年5月に(同時期に)発売された。その前年の1995年に「阪神・淡路大震災」「地下鉄サリン事件」があったと思うと意味深である。