雑記5

新年度ですねー!ヽ(〃▽〃 )ノ!!と言っても、あまり代わり映えしてない今日この頃ですw。

ところで、2月10日「クルーグマン」の記事で、ヨーグルトを一遍に3個食べたときの話を書いたけれど、こういうのを「大人食い」と呼ぶらしい(笑)。最近は、(ビールのおつまみで)枝豆を「大人食い」してますw。まあ、それほど酒好きというわけでもないけどね、一日に500mlの缶ビールを一本飲む程度。

春休み(?)は遠出せず、家電等をあれこれ購入したり、部屋のバージョン・アップ!!をして楽しんだw。ケータイ(携帯電話)も変えた。古いケータイを長く使っていると、あっという間に電池切れになる。毎日、ケータイの充電器をかばんに入れて、古いケータイをごまかしごまかし非常に大事に使っていたのだけど、仕事に支障が出たので、思い切って変えた。新しいケータイをプチプチいじくっていると、僕のこの「はてな」のブログ(ウェブ日記)に「ブックマーク」がついていることが分かった。というか、いまだに僕は「はてな」の仕組みを把握してない(泣)。その「ブックマーク」によると、このブログは「セルフ・ツッコミに目が行きがち」なのらしい(爆)。それは、誰も「ツッコミ」を入れないからですよw、まあ、ともあれ、新年度も宜しくです。

m(_ _)m

あと、記事の文章があまりにも長いと、ケータイからは見られないということも分かった。今後、気を付ける。それと、タイトルの絵も変えた(新年度なので?)。これは「ナチュラルローソン」の写真です。「ナチュラルローソン」は、コンビニの多様化(「新しいコンビニ」)の戦略として開発されたお店です。ちなみに、僕は以前、これの企画と設計に少しだけ関わっていて、まあ、詳しいことは書けない(たいした仕事もしてない)けど、消費の傾向が「ナチュラル」(や「スローライフ」や「ロハス」)から「低価格」へ向かっているので、「ナチュラルローソン」がこの先生きのこるのかは分かりません。でも、まあ、それはさておき、コンビニに興味のある方は一度、ぜひ、最寄の「ナチュラルローソン」へ足を運んでみてください。割と面白いと思います(首都圏にしかないけどな)。*1

前回のタイトルは「りんくうプレミアム・アウトレット」(12月1日「雑記4」参照)の写真で、更にその前のタイトルは「御殿場プレミアム・アウトレット」(8月2日「アウトレットモール」参照)の写真でした。それぞれ「冬バージョン」と「夏バージョン」(のつもり)でした。今回ので三代目w。挿絵のミッフィー「君の瞳に恋してる〜愛のセレブレイション」。超可愛い…

(*´Д`*)

さて、前回の3月15日「フロリダ」で書いた「クリエイティブ都市論」(リチャード・フロリダ著)と「文化と都市の公共政策」(後藤和子著)を同時に読んでいる(同時にどうやって?)のだけどw、去年の12月28日「ノエル」の記事で「なぜか手元になかった(号泣)」と書いたケヴィン・リンチYouTube)の「都市のイメージ」(1960年)が見つかった。知人に貸していたのを思い出して督促の電話を入れたところ、なぜかその本と一緒にチョコレートが同梱されて戻ってきた(笑)。こういうの好き。季節外れの義理チョコかなぁと思ったけど、僕がチョコレートが好きなのを今も覚えていますよ、というメッセージであるらしい。確かに、前の職場では棚に「お菓子コーナー」をつくって毎日補充してたけどなw。まあ、とにかく、そんなわけで、ケヴィン・リンチの「都市のイメージ」も読み始めてしまって、結局、今は3冊を同時に読んでいる(?)というひどい有様ですw。というか、僕は読書がスローペース過ぎるのかも。*2

それから、「はてな」のブログを巡回(browse)していて、「イノベーションのジレンマ」(クレイトン・クリステンセン著)と「経済政策を売り歩く人々」ポール・クルーグマン著)の2冊は読みたいなぁと思った。そういった逆説的な(徹底した実地調査や理論によって常識を覆している)本が僕は好きなのかも知れない。とは言え、今は3冊の本に栞を挟んでいるwというドタバタな状況なので、それは止めておく。でも、とりあえず、様子見はしておこうと思って書店へ行ったら、ボーっと歩いていたせいなのか、気がついたら建築書のコーナーの前にいたw。そして、新著の「マンガ ル・コルビュジエの生涯 立志編」(2009年)に驚いた。来年にはコルビュジエがゲームになっていても、もう驚かない(ワラ)。

あと、10月19日「イオンレイクタウン-2」で書いた「近代建築史」(2008年)も置いてあった。買おうかなぁと思ったけど、上述の理由で断念した(泣)。とりあえず、パラパラと立ち読みを始めたら、気がついたら(日本の歴史以外は)全て読み終えていたw。それくらいに、サラッと読める本でした。おそらく、学生向きなのでしょう。でも、そういった「読み易さ」を優先して編纂されているせいなのか、事実ではない連関の記述が見られる点はやや気になった*3。何となくではあるけど、この本は美術史家のジークフリード・ギーディオンが著した「空間・時間・建築」(1941年)に似ているような気もした。これは、「偶然」の「原子の雨」*4である「歴史」をどう紡ぐのかという目的的な「主体」の話や、11月2日「マンハッタンのゆくえ(前)」で書いた「歴史」認識の「複数」性の話につながるのかも知れない(いわゆる「メタ」視点の話)。まあ、でも、いずれにせよ、(サラッと読めるだけではなく)「歴史」上の多様な事象への心遣い(配慮)が行き届いている良い本であることに変わりはないので、ぜひ、建築以外の方も手に取って読んでみてください。今世紀の建築(レム・コールハース安藤忠雄の作品も)を理解する上でも、「近代建築史」は必須でしょう。*5

あと、「はてな」のブログの界隈で、何かと話題であった「リアルのゆくえ」(2008年)も立ち読みwした。とりあえず、「公共性」に関する章をパラパラと読んでみたのだけど、まあ、何でこの二人は喧嘩腰なのかさえ分からない教養のレベルの僕ではあるけど、いわゆる個人と社会の「乖離」とかそういうことが関係しているのだと思った。つまり、その「乖離」を自覚している人としてない人、または、「乖離」を自覚した上で、それをつなごうとしている人と諦めてしまった人との争いだと思った。単純に、諦めるか諦めないかでは、諦めないほうがよいと思う。ただ、諦めないことに頑なになって現実性(リアリティ)を失っているならば、一歩引いてみたほうがよいと思う(その本と全然関係のない話かも知れないけど)*6。その他では、「公共性」についての議論で「グーグル」Google)が出てくるところが面白かった。でも、前回の3月15日「フロリダ」で書いたように、情報空間と都市空間の関係と*7、「公共性」と「経済性」の関係は*8、今ぼちぼち考えているところなので、もう少し頭の整理ができてから、この本を改めて読んでみようと思います。

さて、今回はケヴィン・リンチの「都市のイメージ」について書こうと思っていたのだけど、えぇと、これはまた今度にするw。この本は半世紀も前に書かれた「試論」ではあるけど、上記の情報空間と都市空間(または記憶と場所)の関係と、ミスチルMr.Children)の8月13日「柏 マイ・ラブ」で書いた「ランニングハイ」の歌詞や12月28日「ノエル」2で書いた「東京」の歌詞と、そして、地元の柏市(「ファスト風土」)と関連付けられる気はしている(追加。「アイコン」と「グリッド」も)。この本に興味のある方は「ケヴィン・リンチ」のウィキペディア参照で、というか、そこには「ボストン中心部を通る高速道路(高架)が街を分断し、住民の空間認識を妨げていると論じた」とあるけど、そんなことは書いてなかったと思う(まだ読み終えてないけどなw)。基本的には、この本は都市環境の工学的変化(車社会化)によって生まれた「新しい場所」(アメリカの都市)での空間認識のあり方を論じている。

以上。

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

新しい場所で うまくやっていけるかな
音楽をかけて 計画をねりねり
今日はなんだかね おもしろいこともないし
リズムにゆられたい んだ ワンルーム・ディスコ


昼間みたい 街の明かりが
星空を みえなくする
たくさんの まぶしい光
とけて消えちゃいそうだ

Perfume、ワンルーム・ディスコ

(リンクが切れていたらここ

*1:沖縄(コンビニ)、into the virtual(ケータイ・ショップ)、World of Tomorrow(「ケータイ都市」のアイデアコンペ)参照。ちなみに、タイトル画像の変更は、前の12月1日「雑記4」のときと変わらず、「なぜかシステムが反応してくれない(泣)」だった。「はてな」側にバグがあるらしい。これは、「設定」のページでタイトル画像を変更した後、「強制再読込」すると解決する。「はてなダイアリーについて よくあるお問い合わせ」より。

*2:無印都市参照(ケヴィン・リンチ)。

*3:例えば、babyismのNatural World-1で書いたように、エベネザー・ハワードの「田園都市」は中世主義とは関係ない。また、babyismのNatural World-4の補足で書いたように、ル・コルビュジエは都市計画に経済(財源)の仕組みを取り込んでいる。まあ、ハワードとル・コルビュジエに関しては、僕が「原典」主義的すぎると言えるかも。この二人を社会がどう解釈・受容したかという視点よりも、二人が実際に何を本に記しているかを中心に「歴史」を見ているとも言える。うーん。

*4:1月12日「アルチュセール」参照(アルチュセール)。

*5:おまけで、「都市史」に興味がある方には、12月28日「ノエル」4で少し書いた「都市計画の世界史」(日端康雄著)を薦めます。ページ数は多いけれど、この本もサラッと読める。あと、「都市デザイン―野望と誤算」(ジョナサン・バーネット著)も薦めます。この本はサラッとは読めないけれど、僕の“バイブル”みたいな本ですw。詳しくはアマゾンのカスタマーレビュー参照。

*6:12月28日「ノエル」2参照(諦めてしまった人々)。

*7:For Tomorrow(「ユビキタス的リアリズム」)、9月3日「抹消された「渋谷」」(「相対的に大きな情報アーカイヴ」としての「渋谷」)、10月13日「イオンレイクタウン」(「アイコン」)、12月28日「ノエル」3(「空間が記号化している」)参照。ついでに、建築家の磯崎新は、「新建築」2009年3月号の「〈建築〉/建築(物)/アーキテクチャー」の記事で、「アイコン」は「最初は画面上の印だった。それが今ではメディア内で流れる情報を仕分けし、差異化するイメージを代理し始めている」と述べている。また、「プロテスタンティズムモダニズムもその運動の始まりは、アイコンの破壊だった」、「バーチャルなメディアの世界では、伝達に独特の型が要請される。時には言葉であり、時には兆候(サイン)となる」、「IT革命のあげく、ウェブ・インフラがグローバルに整備され、その中では唯一実在すると考えられた身体が投入されている世界とは異なる法則が働き始めた。疑われなかった空間・時間でさえ圧縮されて、順序と距離に置換されている」、「このバーチャルな場は、ひとつの発明品であり、操作可能に設計され、あげくに勝手に増殖している」とも述べている。

*8:「公共性」と「経済性」の話は、ル・コルビュジエから論じると面白いと思っている。なぜなら、「300万人のための現代都市」(1922年)では、都市の中心がビジネス・センター(高層のオフィスビル群)であるのに対して、後の「輝く都市」(1930年)では、高層のオフィスビル群は図面上方(人体で例えると頭部)へ追いやられて、都市の中心には「公共空間」が配置されているからである(「サン・ディエの都市計画」(1945年)でも)。このようにして都市の中心の用途(機能)が入れ替わった点については、チャールズ・ジェンクスが「ル・コルビュジエ」(1978年)でも指摘している。ただ、そのような「公共空間」は現実では「無人の吹きさらしの大広場となる傾向があった」ので、それほど成功しているとは言えないし、また、建築家のレム・コールハースは、「OMA/レム・コールハースのジェネリック・シティ」(1995年)で、現在つくられている公共空間の多くは、「存在しないコミュニティを公に宣言し――秩序という妄想を夢見る、ノスタルジックなタペストリー」である(「死体の防腐処理」である)として、これは「危険」である(「真正」ではない)と述べている。更に、じつのところ、建築家も政治家も大衆自身も「公共の生活空間の意味」が分かっていなくて、「信じがたいほどのノスタルジアが邪魔して何かを見直すことも、観察することすらもできないでいる」とも述べている。9月3日「抹消された「渋谷」」参照(「ジェネリック・シティ」)。いずれにせよ、ル・コルビュジエのその2つの都市計画が、1929年の世界恐慌の前後であると思うと意味深である。それは今の日本(と世界)の状況と似ているかも。Natural World-5参照(「かつて中世伽藍が白かったとき、人びとはすべてのことにこぞって参加した。(中略)その影像を心に留めなければならない」、ル・コルビュジエ)。