雑記6

えっと、「プロフィール欄」にも一応書いてはあるけど、別ブログも書いてます。

その別ブログでは、タイトルの「mise en relation」(「関係性に委ねる」と訳す*1)にある通り、あまり僕の意見(概観)を書かないで、出版物や事実等の記述に留める、というスタイルで行くつもりなのだけど(このブログとは、そのような差異化をするつもり)、とりあえず、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事は、このブログに書いた10月19日「イオンレイクタウン-2」や12月28日 「ノエル」の5の記事での「全体性(の消失)」の文脈と(僕の中では)つながっている。まっ、要するに、ケヴィン・リンチは、「全体性」の獲得(回復)を望んでいるのです。

別ブログのその前日の「環境のイメージ」の記事では、ケヴィン・リンチは「苦慮している」と書いたのだけど、それはまさにその「全体性」の獲得(回復)の正当性(必要性)を論理で説明し尽くす、というところにおいて彼は「苦慮」しているのです。一方、ケヴィン・リンチの弟子のクリストファー・アレグザンダーは、その論理を更に徹底させているのだけど、逆になぜ「全体性」が必要なのか、という問いに対しては、無関心になっているようにも思えるのです。

そして、これはクリストファー・アレグザンダーに限った話ではなく、例えば、日本の戦後社会の特徴と言われている「郊外化」や「核家族化」について考えようとしても、まともなテクストがない。もちろん、よく探せばどこかにあるのかも知れないけど、戦前に書かれたテクストや翻訳本や各種の統計等を見ていると、何かが突然変わってしまったような奇妙さを、どうしても感じてしまうのです。*2

まっ、とは言っても、あまり自分の意見(概観)を書く気にはならないので、今後、別ブログのほうが、完全にメインになるだろうと思っています。興味のある方は是非そちらへ(ただの「読書録」(個人用メモ)でしかないけどな)。

( ・ω・) どっちか1つにしたほうが効率いいのかも知れないけど細かいことは気にしないでおく。

えっと。

ところで、9月25日「蘇生」で引用した、ブラー(Blur)の「The Universal」(1995年)は、じつは「情報化社会」の曲です。この曲のプロモーションビデオは、「島宇宙」を映像化しています。これは、スタンリー・キューブリック映画のパロディー(アイロニー)でもあるらしい。

ちなみに、ブラーの「The Universal」のジャケットはこれですが、

元ネタはこれですw。

この曲が、「情報化社会」の曲であると言うのは、(前にも書いたけど)歌詞を見るとよく分かる。

This is the next century / Where the Universal's free / You can find it anywhere / Yes, the future's been sold
Every night we're gone / And to karaoke songs / How we like to sing along / 'Though the words are wrong


No-one here is alone / Satellite's in every home / Yes, the Universal's here / Here for everyone
Every paper that you read / Says tomorrow's your lucky day / Well, here's your lucky day

(Blur - The Universal)

(前にも貼ったけど)動画です。*3

(リンクが切れてたらここ

そして、babyismの「Integral Project-1」の記事に貼った、ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boys)の「Integral」(2007年)も、「情報化社会」の曲です。「The Universal」から約12年後の曲です。

歌詞はこれです。

Long live us / The persuaded we / Integral / Collectively / To the whole project / It's brand new / Conceived solely / To protect you

Everyone has / Their own number / In the system that / We operate under / We're moving to / A situation / Where your lives exist / As information

One world / One reason / Unchanging / One season


If you've done nothing wrong / You've got nothing to fear / If you've something to hide / You shouldn't even be here

(Pet Shop Boys - Integral)

動画はこれ。

(リンクが切れてたらここ

この動画の2分38秒頃には、情報空間の内側から外側の監視カメラ*4を双眼鏡で覗く、というワンカットがあって、更に、その後ろの壁には「WHAT ARE YOU LOOKING AT?」の文字が書かれている(意味深すぎて、よく分からないけど、この文字には2つの意味がある)。そして、その直後(2分39秒〜)の映像に僕はぞっとする。あと、この曲のコンサート動画をYouTubeでプチプチ見てみると、ニール(ペット・ショップ・ボーイズの歌っているほうの人)が、軍服を着ているのもあった(これ←音質が悪い)。

以上です。

「情報化社会」には、ブラーの「The Universal」とペット・ショップ・ボーイズの「Integral」で端的に表されているような「二極」(または「乖離」)があると認識し得る、ということです*5。…ということを、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事(都市空間の認知について)を書いた後にあれこれ考えた、ということです(w)。話が少し飛ぶけど、「コンビニ」や「ネットスーパー」等の(物流)システムは、「都市」を解体している、「反都市」である*6ということが(僕の中では)確定した*7。まっ、でも、とりあえず、僕が問題にしたいのは、ケヴィン・リンチの調査が明らかにしたような、都市空間における「乖離」であり、また、以前、8月27日「どこでもドア」と3月15日「フロリダ」で、情報空間と都市空間の「乖離」について書いたように、情報空間には情報空間固有の挙動が、都市空間には都市空間固有の挙動(物理学)があるので、それぞれ個別に追究されるべきなのだけど、どこかで「交叉」するような瞬間があるのではないか、または、そのようにして「全体性」を訪ね続ける、という姿勢は保持されなければならないのではないか、と思うのです。(ただ、その考えをどんどん煮詰めて行くと、「経済格差」問題に行き着いてしまう、というところが結構、(僕の中では)微妙な問題だったりする。*8

(ここまで昨日(6月28日)書いた)

あと、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事(都市空間における「乖離」の問題)との関連で、あと一つだけメモる。

σ(・ω・*) ゴソゴソ。

えっと。

コールハースは語る」(2008年)の対談で、美術キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストはこう述べている。

(前略)以前ピーター・スミッソン*9にインタビューした際、都市の現在の状況について見解を求めました。その時の彼の答えはこうです。「今、重要な作業は中間領域について徹底的に考えることだ。世界で起こっていることはほとんどが悪夢だ。昨冬、モントリオールで仕事をしたが、国際空港から町へ入る道路脇には、工場が次から次へと、住宅群が次から次へと並んでいる……信じられない。しかも、あっという間にこうなってしまったのだ。二〇年間で、たったひとつの世代が建築の意味をほぼすべて抹殺してしまった……しかしそこには共同体的な意識、つまり中間領域という感覚がない。すべての建物が、まるでそれだけで存在しているかのように建っている」とね。

この見方に同意しますか。オランダでも同じではないですか。

そして、レム・コールハースはこう答えている。

接続という点では、ひどい機能不全が起こっていると見ています。この状況を改善するために、メタ構造レベル、あるいはインフラストラクチャーのレベルでこの問題をとらえ、考えることに非常に関心を持っています。

昨夜フェルナント・ロメロ*10が公共交通手段、つまり電車でロッテルダムからアムステルダムに着くのに二時間半もかかりました。彼は社会的にまったく正しいことをやっているのに、です。駅まで歩いて行き、電車とトラムに乗った。まともに公共交通を使うと、自動車の三倍の時間がかかるというのは異常です。だからみんな車に乗り、それがまた道路を渋滞させることになる。*11

つまり悪循環*12なのです。(中略)ただ難しいのは、ここには政治レベルの問題*13があって、そこにアクセスするのが一番困難だということです。また、たとえそこへ入り込んでも、僕たちはたちまちのうちに、考え方は面白いが現実味に欠けた空想家、あるいは邪魔者、または誇大妄想狂と分類されてしまう。(後略)

キーワードは「中間領域」と「接続(性)」なのかな。

まっ、そんなわけで、21世紀のニーズは、「用途混合」型の都市*14と「トランジットシティ」*15なのです(キリッ)。

Σ(・ω・ノ)ノ

3月15日「フロリダ」の記事で、「『用途混合』型の都市とは、自己組織化に抗って、宇宙が誕生して間もない状態を『永続』させる夢を見る、という都市なのです」と書いたけど、これは思いっきり省略した表現で、「夢」と書いたけど、これは別に、理論と実践の違いについてでもなく、理論的に不可能という意味でもなく、…説明がとても難しいのだけど、まず第一に、1月12日「アルチュセール」の記事で書いたように、「論理ではなく、カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせたというだけのもの」として可能なのであるということ、要するに、「用途混合」型の都市は、(単独ではなく)他の都市モデルと組み合わせることで可能なのである、ということ。しかし第二に、「カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせ」るというプロセスは、(1)「演繹」された都市形態(これを「工学素」と名付ける)を、(2)「偶然性」に委ねて、(3)僕が組み立てている、ということでもあるので、やはり、これは「ブリコラージュ」(レヴィ=ストロース著「野生の思考」(1962年))なのである、ということです。

ではでは。

(。・ω・)ノシ ではでは。

(追記。文字カウントしたら1万文字を超えていた。おそらくケータイからは見られない←4月11日「雑記5」参照)

m(_ _)m

(追記2)

竹内まりや、「シンクロニシティ(素敵な偶然)」(2006年)。

(リンクが切れてたらここ

*1:レム・コールハース著「コールハースは語る」(2008年)より。P.104。

*2:例えば、戦後日本では「核家族化」が進んでいると言われているけど、統計を見ると、1920年核家族は世帯類型全体の55%、2000年で60%である。つまり、5%しか増えていない。「核家族化」を問題視する学者や建築家は多いけど、「核家族化」のせいにされている諸問題のいくつかは、じつは「核家族化」のせいではないのではないか、前提からして違うのではないか、とつい考え込んでしまう。しかし、そういう前提に立つと、読めるテクストが一気に減る。まっ、基本的に、日本の社会学者が馬鹿すぎるということが、日本の難点ではあるが。むしろ、「単独世帯」の増加、または、レヴィ=ストロースではないけど、「親族」(親戚)の居住地(分布)に注目したほうが良いと思う。

*3:この「The Universal」のプロモーションビデオは、ジョナサン・グレイザー(Jonathan Glazer)が撮った。ちなみに、babyismの「Kinkyo-2」の記事に貼った、ジャミロクワイ(Jamiroquai)の「Virtual Insanity」(1996年)もジョナサン・グレイザーの作品です(あと、「Strange Paradise」の記事内の「Cosmic Girl」(1996年)も)。あと、Unkleの「Rabbit in your Headlights」(1998年)も。でも、この作品はややグロいので、苦手な人は見ないほうがいいです。平気な人はYouTubeで検索して見てみてください。最後に凄い「オチ」があります。驚いた。ちなみに、このプロモーションビデオは、ヨーロッパで絶賛されたらしい。この作品は、彼らの哲学や宗教観(キリスト教)をよく現しているのかも知れない。「Material World-1」参照(キリスト教)。

*4:イギリスは、監視カメラ大国で「その数は2000年で最大420万台、英国人口の14人に1台の割合」で、「1日当たり1人につき300枚ほどの写真が撮られているそうです」。日経BPビッグ・ブラザーが見守る街」(2008年)より。ついでに、こんなニュースもある。

*5:社会学者の鈴木謙介は、「サブカル・ニッポンの新自由主義」(2008年)で、「情報化が進展することによって可能になる未来社会のモデルは、吉田純によれば、「モダン・アプローチ」と「ポストモダン・アプローチ」と呼びうるものに大別できる。吉田によれば両者の対立は、「現代社会を(ハーバーマスのように)モダニティという『未完のプロジェクト』の延長線上にあるものとして認識するか、それともモダニティのプロジェクト(リオタールのいう『大きな物語』)はすでに終焉し、現代はすでに『小さな物語』の氾濫するポストモダンの時代に突入しているとみるかという、現代の社会理論・社会思想全体の根底にある対立」ということになる。平易な言い方をすれば、前者は情報社会を「近代の理想がより発露できる時代」、後者は「近代を超克した理想が実現する時代」と捉えているのである」と述べている。

*6:反物質」参照(「反-」)。うーん、「反都市」というより、「超都市」と呼んだほうがいいのかも。いずれにせよ、「都市」の反対語は「農村」だけではない。「コンビニ」は「都市」から生まれたけど、都市思想家のジェーン・ジェイコブスの「都市の原理」(1969年)によると、典型的な「農村」の活動と思われるものも、最初は「都市」で生まれた後、周辺の地域に広がっていったそうである。うーん、そう考えると、「コンビニ」は「都市」を再構築している、とも言える。つまり、「コンビニ」は「都市」を脱構築している。

*7:もちろん、「都市」の定義にもよる。僕の簡単な定義では、「都市」とは、「放射状のベクトル場」のある場所。1月12日「アルチュセール」参照(「ベクトル場」)。

*8:この「微妙な問題」は、都市経済学者のリチャード・フロリダと絡めて書くと良いように思える。リチャード・フロリダは、「経済格差」は広がるべきではないと考えているのだけど、彼がいくら都市論を展開しても、その「〜べきではない」の担保(正当性)は結局、見つからないのである。そして、そんなリチャード・フロリダに僕は(勝手に)共感してしまっている、という問題です(w)。念のため、リチャード・フロリダが「クリエイティブ都市論」(の前半)を書いた動機は、「経済格差」問題である。そして、同書の後半では、「経済」とは異なる価値(「幸福」)について論じている。3月15日「フロリダ」参照。

*9:「イギリスの建築家、チームX(テン)を率いて五〇―六〇年代のモダニズムを牽引した。一九二三年―二〇〇二年」(同書より)、(7月8日追記:別ブログの「機能から構造へ」参照)

*10:「メキシコの建築家、LCMを主宰。一九七一年―」(同書より)

*11:経済学者の後藤和子は、「文化と都市の公共政策」(2005年)で、オランダは「全人口1630万人(2004年)の5分の4は都市部に集中しているが、アムステルダムロッテルダム、ハーグ、ユトレヒトというオランダ西部に位置する4大都市が、グリーン・ハートとよばれる緑地を囲むリングを形成するような空間政策(ランドスタッド)が採用され、都市に住みながら緑地にすぐアクセスできる住環境を形成してきた。グリーン・ハートは、都市の周囲を緑地で囲むイギリスのグリーン・ベルトとは対照的に、4大都市を結ぶリングの中心に緑地を配置し、経済効率を犠牲にしても鉄道を迂回させるような国土設計になっている」と述べている。レム・コールハースも、「コールハースは語る」第2章「ヨーロッパについて」では、「ヨーロッパは、フラット化に対する強靭な反勢力であり、(中略)多少の『非効率性』を飲んでも地域間の差異を守ろうとしている」と述べている。ちなみに、後藤和子のその本では、オランダの「公共政策」も論じている。そのうちブログに書く。3月15日「フロリダ」参照(後藤和子)。

*12:11月2日「マンハッタンのゆくえ(前)」参照(「原因と結果の悪循環」)

*13:11月16日「雑記3」、1月12日「アルチュセール」、3月15日「フロリダ」参照(「政治」)

*14:Integral Project-1」、3月15日「フロリダ」参照

*15:Transit City (Integral Project-3)」、12月10日「エソラ」参照