雑記6

えっと、「プロフィール欄」にも一応書いてはあるけど、別ブログも書いてます。

その別ブログでは、タイトルの「mise en relation」(「関係性に委ねる」と訳す*1)にある通り、あまり僕の意見(概観)を書かないで、出版物や事実等の記述に留める、というスタイルで行くつもりなのだけど(このブログとは、そのような差異化をするつもり)、とりあえず、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事は、このブログに書いた10月19日「イオンレイクタウン-2」や12月28日 「ノエル」の5の記事での「全体性(の消失)」の文脈と(僕の中では)つながっている。まっ、要するに、ケヴィン・リンチは、「全体性」の獲得(回復)を望んでいるのです。

別ブログのその前日の「環境のイメージ」の記事では、ケヴィン・リンチは「苦慮している」と書いたのだけど、それはまさにその「全体性」の獲得(回復)の正当性(必要性)を論理で説明し尽くす、というところにおいて彼は「苦慮」しているのです。一方、ケヴィン・リンチの弟子のクリストファー・アレグザンダーは、その論理を更に徹底させているのだけど、逆になぜ「全体性」が必要なのか、という問いに対しては、無関心になっているようにも思えるのです。

そして、これはクリストファー・アレグザンダーに限った話ではなく、例えば、日本の戦後社会の特徴と言われている「郊外化」や「核家族化」について考えようとしても、まともなテクストがない。もちろん、よく探せばどこかにあるのかも知れないけど、戦前に書かれたテクストや翻訳本や各種の統計等を見ていると、何かが突然変わってしまったような奇妙さを、どうしても感じてしまうのです。*2

まっ、とは言っても、あまり自分の意見(概観)を書く気にはならないので、今後、別ブログのほうが、完全にメインになるだろうと思っています。興味のある方は是非そちらへ(ただの「読書録」(個人用メモ)でしかないけどな)。

( ・ω・) どっちか1つにしたほうが効率いいのかも知れないけど細かいことは気にしないでおく。

えっと。

ところで、9月25日「蘇生」で引用した、ブラー(Blur)の「The Universal」(1995年)は、じつは「情報化社会」の曲です。この曲のプロモーションビデオは、「島宇宙」を映像化しています。これは、スタンリー・キューブリック映画のパロディー(アイロニー)でもあるらしい。

ちなみに、ブラーの「The Universal」のジャケットはこれですが、

元ネタはこれですw。

この曲が、「情報化社会」の曲であると言うのは、(前にも書いたけど)歌詞を見るとよく分かる。

This is the next century / Where the Universal's free / You can find it anywhere / Yes, the future's been sold
Every night we're gone / And to karaoke songs / How we like to sing along / 'Though the words are wrong


No-one here is alone / Satellite's in every home / Yes, the Universal's here / Here for everyone
Every paper that you read / Says tomorrow's your lucky day / Well, here's your lucky day

(Blur - The Universal)

(前にも貼ったけど)動画です。*3

(リンクが切れてたらここ

そして、babyismの「Integral Project-1」の記事に貼った、ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boys)の「Integral」(2007年)も、「情報化社会」の曲です。「The Universal」から約12年後の曲です。

歌詞はこれです。

Long live us / The persuaded we / Integral / Collectively / To the whole project / It's brand new / Conceived solely / To protect you

Everyone has / Their own number / In the system that / We operate under / We're moving to / A situation / Where your lives exist / As information

One world / One reason / Unchanging / One season


If you've done nothing wrong / You've got nothing to fear / If you've something to hide / You shouldn't even be here

(Pet Shop Boys - Integral)

動画はこれ。

(リンクが切れてたらここ

この動画の2分38秒頃には、情報空間の内側から外側の監視カメラ*4を双眼鏡で覗く、というワンカットがあって、更に、その後ろの壁には「WHAT ARE YOU LOOKING AT?」の文字が書かれている(意味深すぎて、よく分からないけど、この文字には2つの意味がある)。そして、その直後(2分39秒〜)の映像に僕はぞっとする。あと、この曲のコンサート動画をYouTubeでプチプチ見てみると、ニール(ペット・ショップ・ボーイズの歌っているほうの人)が、軍服を着ているのもあった(これ←音質が悪い)。

以上です。

「情報化社会」には、ブラーの「The Universal」とペット・ショップ・ボーイズの「Integral」で端的に表されているような「二極」(または「乖離」)があると認識し得る、ということです*5。…ということを、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事(都市空間の認知について)を書いた後にあれこれ考えた、ということです(w)。話が少し飛ぶけど、「コンビニ」や「ネットスーパー」等の(物流)システムは、「都市」を解体している、「反都市」である*6ということが(僕の中では)確定した*7。まっ、でも、とりあえず、僕が問題にしたいのは、ケヴィン・リンチの調査が明らかにしたような、都市空間における「乖離」であり、また、以前、8月27日「どこでもドア」と3月15日「フロリダ」で、情報空間と都市空間の「乖離」について書いたように、情報空間には情報空間固有の挙動が、都市空間には都市空間固有の挙動(物理学)があるので、それぞれ個別に追究されるべきなのだけど、どこかで「交叉」するような瞬間があるのではないか、または、そのようにして「全体性」を訪ね続ける、という姿勢は保持されなければならないのではないか、と思うのです。(ただ、その考えをどんどん煮詰めて行くと、「経済格差」問題に行き着いてしまう、というところが結構、(僕の中では)微妙な問題だったりする。*8

(ここまで昨日(6月28日)書いた)

あと、別ブログの6月25日「環境のイメージ-2」の記事(都市空間における「乖離」の問題)との関連で、あと一つだけメモる。

σ(・ω・*) ゴソゴソ。

えっと。

コールハースは語る」(2008年)の対談で、美術キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストはこう述べている。

(前略)以前ピーター・スミッソン*9にインタビューした際、都市の現在の状況について見解を求めました。その時の彼の答えはこうです。「今、重要な作業は中間領域について徹底的に考えることだ。世界で起こっていることはほとんどが悪夢だ。昨冬、モントリオールで仕事をしたが、国際空港から町へ入る道路脇には、工場が次から次へと、住宅群が次から次へと並んでいる……信じられない。しかも、あっという間にこうなってしまったのだ。二〇年間で、たったひとつの世代が建築の意味をほぼすべて抹殺してしまった……しかしそこには共同体的な意識、つまり中間領域という感覚がない。すべての建物が、まるでそれだけで存在しているかのように建っている」とね。

この見方に同意しますか。オランダでも同じではないですか。

そして、レム・コールハースはこう答えている。

接続という点では、ひどい機能不全が起こっていると見ています。この状況を改善するために、メタ構造レベル、あるいはインフラストラクチャーのレベルでこの問題をとらえ、考えることに非常に関心を持っています。

昨夜フェルナント・ロメロ*10が公共交通手段、つまり電車でロッテルダムからアムステルダムに着くのに二時間半もかかりました。彼は社会的にまったく正しいことをやっているのに、です。駅まで歩いて行き、電車とトラムに乗った。まともに公共交通を使うと、自動車の三倍の時間がかかるというのは異常です。だからみんな車に乗り、それがまた道路を渋滞させることになる。*11

つまり悪循環*12なのです。(中略)ただ難しいのは、ここには政治レベルの問題*13があって、そこにアクセスするのが一番困難だということです。また、たとえそこへ入り込んでも、僕たちはたちまちのうちに、考え方は面白いが現実味に欠けた空想家、あるいは邪魔者、または誇大妄想狂と分類されてしまう。(後略)

キーワードは「中間領域」と「接続(性)」なのかな。

まっ、そんなわけで、21世紀のニーズは、「用途混合」型の都市*14と「トランジットシティ」*15なのです(キリッ)。

Σ(・ω・ノ)ノ

3月15日「フロリダ」の記事で、「『用途混合』型の都市とは、自己組織化に抗って、宇宙が誕生して間もない状態を『永続』させる夢を見る、という都市なのです」と書いたけど、これは思いっきり省略した表現で、「夢」と書いたけど、これは別に、理論と実践の違いについてでもなく、理論的に不可能という意味でもなく、…説明がとても難しいのだけど、まず第一に、1月12日「アルチュセール」の記事で書いたように、「論理ではなく、カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせたというだけのもの」として可能なのであるということ、要するに、「用途混合」型の都市は、(単独ではなく)他の都市モデルと組み合わせることで可能なのである、ということ。しかし第二に、「カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせ」るというプロセスは、(1)「演繹」された都市形態(これを「工学素」と名付ける)を、(2)「偶然性」に委ねて、(3)僕が組み立てている、ということでもあるので、やはり、これは「ブリコラージュ」(レヴィ=ストロース著「野生の思考」(1962年))なのである、ということです。

ではでは。

(。・ω・)ノシ ではでは。

(追記。文字カウントしたら1万文字を超えていた。おそらくケータイからは見られない←4月11日「雑記5」参照)

m(_ _)m

(追記2)

竹内まりや、「シンクロニシティ(素敵な偶然)」(2006年)。

(リンクが切れてたらここ

*1:レム・コールハース著「コールハースは語る」(2008年)より。P.104。

*2:例えば、戦後日本では「核家族化」が進んでいると言われているけど、統計を見ると、1920年核家族は世帯類型全体の55%、2000年で60%である。つまり、5%しか増えていない。「核家族化」を問題視する学者や建築家は多いけど、「核家族化」のせいにされている諸問題のいくつかは、じつは「核家族化」のせいではないのではないか、前提からして違うのではないか、とつい考え込んでしまう。しかし、そういう前提に立つと、読めるテクストが一気に減る。まっ、基本的に、日本の社会学者が馬鹿すぎるということが、日本の難点ではあるが。むしろ、「単独世帯」の増加、または、レヴィ=ストロースではないけど、「親族」(親戚)の居住地(分布)に注目したほうが良いと思う。

*3:この「The Universal」のプロモーションビデオは、ジョナサン・グレイザー(Jonathan Glazer)が撮った。ちなみに、babyismの「Kinkyo-2」の記事に貼った、ジャミロクワイ(Jamiroquai)の「Virtual Insanity」(1996年)もジョナサン・グレイザーの作品です(あと、「Strange Paradise」の記事内の「Cosmic Girl」(1996年)も)。あと、Unkleの「Rabbit in your Headlights」(1998年)も。でも、この作品はややグロいので、苦手な人は見ないほうがいいです。平気な人はYouTubeで検索して見てみてください。最後に凄い「オチ」があります。驚いた。ちなみに、このプロモーションビデオは、ヨーロッパで絶賛されたらしい。この作品は、彼らの哲学や宗教観(キリスト教)をよく現しているのかも知れない。「Material World-1」参照(キリスト教)。

*4:イギリスは、監視カメラ大国で「その数は2000年で最大420万台、英国人口の14人に1台の割合」で、「1日当たり1人につき300枚ほどの写真が撮られているそうです」。日経BPビッグ・ブラザーが見守る街」(2008年)より。ついでに、こんなニュースもある。

*5:社会学者の鈴木謙介は、「サブカル・ニッポンの新自由主義」(2008年)で、「情報化が進展することによって可能になる未来社会のモデルは、吉田純によれば、「モダン・アプローチ」と「ポストモダン・アプローチ」と呼びうるものに大別できる。吉田によれば両者の対立は、「現代社会を(ハーバーマスのように)モダニティという『未完のプロジェクト』の延長線上にあるものとして認識するか、それともモダニティのプロジェクト(リオタールのいう『大きな物語』)はすでに終焉し、現代はすでに『小さな物語』の氾濫するポストモダンの時代に突入しているとみるかという、現代の社会理論・社会思想全体の根底にある対立」ということになる。平易な言い方をすれば、前者は情報社会を「近代の理想がより発露できる時代」、後者は「近代を超克した理想が実現する時代」と捉えているのである」と述べている。

*6:反物質」参照(「反-」)。うーん、「反都市」というより、「超都市」と呼んだほうがいいのかも。いずれにせよ、「都市」の反対語は「農村」だけではない。「コンビニ」は「都市」から生まれたけど、都市思想家のジェーン・ジェイコブスの「都市の原理」(1969年)によると、典型的な「農村」の活動と思われるものも、最初は「都市」で生まれた後、周辺の地域に広がっていったそうである。うーん、そう考えると、「コンビニ」は「都市」を再構築している、とも言える。つまり、「コンビニ」は「都市」を脱構築している。

*7:もちろん、「都市」の定義にもよる。僕の簡単な定義では、「都市」とは、「放射状のベクトル場」のある場所。1月12日「アルチュセール」参照(「ベクトル場」)。

*8:この「微妙な問題」は、都市経済学者のリチャード・フロリダと絡めて書くと良いように思える。リチャード・フロリダは、「経済格差」は広がるべきではないと考えているのだけど、彼がいくら都市論を展開しても、その「〜べきではない」の担保(正当性)は結局、見つからないのである。そして、そんなリチャード・フロリダに僕は(勝手に)共感してしまっている、という問題です(w)。念のため、リチャード・フロリダが「クリエイティブ都市論」(の前半)を書いた動機は、「経済格差」問題である。そして、同書の後半では、「経済」とは異なる価値(「幸福」)について論じている。3月15日「フロリダ」参照。

*9:「イギリスの建築家、チームX(テン)を率いて五〇―六〇年代のモダニズムを牽引した。一九二三年―二〇〇二年」(同書より)、(7月8日追記:別ブログの「機能から構造へ」参照)

*10:「メキシコの建築家、LCMを主宰。一九七一年―」(同書より)

*11:経済学者の後藤和子は、「文化と都市の公共政策」(2005年)で、オランダは「全人口1630万人(2004年)の5分の4は都市部に集中しているが、アムステルダムロッテルダム、ハーグ、ユトレヒトというオランダ西部に位置する4大都市が、グリーン・ハートとよばれる緑地を囲むリングを形成するような空間政策(ランドスタッド)が採用され、都市に住みながら緑地にすぐアクセスできる住環境を形成してきた。グリーン・ハートは、都市の周囲を緑地で囲むイギリスのグリーン・ベルトとは対照的に、4大都市を結ぶリングの中心に緑地を配置し、経済効率を犠牲にしても鉄道を迂回させるような国土設計になっている」と述べている。レム・コールハースも、「コールハースは語る」第2章「ヨーロッパについて」では、「ヨーロッパは、フラット化に対する強靭な反勢力であり、(中略)多少の『非効率性』を飲んでも地域間の差異を守ろうとしている」と述べている。ちなみに、後藤和子のその本では、オランダの「公共政策」も論じている。そのうちブログに書く。3月15日「フロリダ」参照(後藤和子)。

*12:11月2日「マンハッタンのゆくえ(前)」参照(「原因と結果の悪循環」)

*13:11月16日「雑記3」、1月12日「アルチュセール」、3月15日「フロリダ」参照(「政治」)

*14:Integral Project-1」、3月15日「フロリダ」参照

*15:Transit City (Integral Project-3)」、12月10日「エソラ」参照

雑記5

新年度ですねー!ヽ(〃▽〃 )ノ!!と言っても、あまり代わり映えしてない今日この頃ですw。

ところで、2月10日「クルーグマン」の記事で、ヨーグルトを一遍に3個食べたときの話を書いたけれど、こういうのを「大人食い」と呼ぶらしい(笑)。最近は、(ビールのおつまみで)枝豆を「大人食い」してますw。まあ、それほど酒好きというわけでもないけどね、一日に500mlの缶ビールを一本飲む程度。

春休み(?)は遠出せず、家電等をあれこれ購入したり、部屋のバージョン・アップ!!をして楽しんだw。ケータイ(携帯電話)も変えた。古いケータイを長く使っていると、あっという間に電池切れになる。毎日、ケータイの充電器をかばんに入れて、古いケータイをごまかしごまかし非常に大事に使っていたのだけど、仕事に支障が出たので、思い切って変えた。新しいケータイをプチプチいじくっていると、僕のこの「はてな」のブログ(ウェブ日記)に「ブックマーク」がついていることが分かった。というか、いまだに僕は「はてな」の仕組みを把握してない(泣)。その「ブックマーク」によると、このブログは「セルフ・ツッコミに目が行きがち」なのらしい(爆)。それは、誰も「ツッコミ」を入れないからですよw、まあ、ともあれ、新年度も宜しくです。

m(_ _)m

あと、記事の文章があまりにも長いと、ケータイからは見られないということも分かった。今後、気を付ける。それと、タイトルの絵も変えた(新年度なので?)。これは「ナチュラルローソン」の写真です。「ナチュラルローソン」は、コンビニの多様化(「新しいコンビニ」)の戦略として開発されたお店です。ちなみに、僕は以前、これの企画と設計に少しだけ関わっていて、まあ、詳しいことは書けない(たいした仕事もしてない)けど、消費の傾向が「ナチュラル」(や「スローライフ」や「ロハス」)から「低価格」へ向かっているので、「ナチュラルローソン」がこの先生きのこるのかは分かりません。でも、まあ、それはさておき、コンビニに興味のある方は一度、ぜひ、最寄の「ナチュラルローソン」へ足を運んでみてください。割と面白いと思います(首都圏にしかないけどな)。*1

前回のタイトルは「りんくうプレミアム・アウトレット」(12月1日「雑記4」参照)の写真で、更にその前のタイトルは「御殿場プレミアム・アウトレット」(8月2日「アウトレットモール」参照)の写真でした。それぞれ「冬バージョン」と「夏バージョン」(のつもり)でした。今回ので三代目w。挿絵のミッフィー「君の瞳に恋してる〜愛のセレブレイション」。超可愛い…

(*´Д`*)

さて、前回の3月15日「フロリダ」で書いた「クリエイティブ都市論」(リチャード・フロリダ著)と「文化と都市の公共政策」(後藤和子著)を同時に読んでいる(同時にどうやって?)のだけどw、去年の12月28日「ノエル」の記事で「なぜか手元になかった(号泣)」と書いたケヴィン・リンチYouTube)の「都市のイメージ」(1960年)が見つかった。知人に貸していたのを思い出して督促の電話を入れたところ、なぜかその本と一緒にチョコレートが同梱されて戻ってきた(笑)。こういうの好き。季節外れの義理チョコかなぁと思ったけど、僕がチョコレートが好きなのを今も覚えていますよ、というメッセージであるらしい。確かに、前の職場では棚に「お菓子コーナー」をつくって毎日補充してたけどなw。まあ、とにかく、そんなわけで、ケヴィン・リンチの「都市のイメージ」も読み始めてしまって、結局、今は3冊を同時に読んでいる(?)というひどい有様ですw。というか、僕は読書がスローペース過ぎるのかも。*2

それから、「はてな」のブログを巡回(browse)していて、「イノベーションのジレンマ」(クレイトン・クリステンセン著)と「経済政策を売り歩く人々」ポール・クルーグマン著)の2冊は読みたいなぁと思った。そういった逆説的な(徹底した実地調査や理論によって常識を覆している)本が僕は好きなのかも知れない。とは言え、今は3冊の本に栞を挟んでいるwというドタバタな状況なので、それは止めておく。でも、とりあえず、様子見はしておこうと思って書店へ行ったら、ボーっと歩いていたせいなのか、気がついたら建築書のコーナーの前にいたw。そして、新著の「マンガ ル・コルビュジエの生涯 立志編」(2009年)に驚いた。来年にはコルビュジエがゲームになっていても、もう驚かない(ワラ)。

あと、10月19日「イオンレイクタウン-2」で書いた「近代建築史」(2008年)も置いてあった。買おうかなぁと思ったけど、上述の理由で断念した(泣)。とりあえず、パラパラと立ち読みを始めたら、気がついたら(日本の歴史以外は)全て読み終えていたw。それくらいに、サラッと読める本でした。おそらく、学生向きなのでしょう。でも、そういった「読み易さ」を優先して編纂されているせいなのか、事実ではない連関の記述が見られる点はやや気になった*3。何となくではあるけど、この本は美術史家のジークフリード・ギーディオンが著した「空間・時間・建築」(1941年)に似ているような気もした。これは、「偶然」の「原子の雨」*4である「歴史」をどう紡ぐのかという目的的な「主体」の話や、11月2日「マンハッタンのゆくえ(前)」で書いた「歴史」認識の「複数」性の話につながるのかも知れない(いわゆる「メタ」視点の話)。まあ、でも、いずれにせよ、(サラッと読めるだけではなく)「歴史」上の多様な事象への心遣い(配慮)が行き届いている良い本であることに変わりはないので、ぜひ、建築以外の方も手に取って読んでみてください。今世紀の建築(レム・コールハース安藤忠雄の作品も)を理解する上でも、「近代建築史」は必須でしょう。*5

あと、「はてな」のブログの界隈で、何かと話題であった「リアルのゆくえ」(2008年)も立ち読みwした。とりあえず、「公共性」に関する章をパラパラと読んでみたのだけど、まあ、何でこの二人は喧嘩腰なのかさえ分からない教養のレベルの僕ではあるけど、いわゆる個人と社会の「乖離」とかそういうことが関係しているのだと思った。つまり、その「乖離」を自覚している人としてない人、または、「乖離」を自覚した上で、それをつなごうとしている人と諦めてしまった人との争いだと思った。単純に、諦めるか諦めないかでは、諦めないほうがよいと思う。ただ、諦めないことに頑なになって現実性(リアリティ)を失っているならば、一歩引いてみたほうがよいと思う(その本と全然関係のない話かも知れないけど)*6。その他では、「公共性」についての議論で「グーグル」Google)が出てくるところが面白かった。でも、前回の3月15日「フロリダ」で書いたように、情報空間と都市空間の関係と*7、「公共性」と「経済性」の関係は*8、今ぼちぼち考えているところなので、もう少し頭の整理ができてから、この本を改めて読んでみようと思います。

さて、今回はケヴィン・リンチの「都市のイメージ」について書こうと思っていたのだけど、えぇと、これはまた今度にするw。この本は半世紀も前に書かれた「試論」ではあるけど、上記の情報空間と都市空間(または記憶と場所)の関係と、ミスチルMr.Children)の8月13日「柏 マイ・ラブ」で書いた「ランニングハイ」の歌詞や12月28日「ノエル」2で書いた「東京」の歌詞と、そして、地元の柏市(「ファスト風土」)と関連付けられる気はしている(追加。「アイコン」と「グリッド」も)。この本に興味のある方は「ケヴィン・リンチ」のウィキペディア参照で、というか、そこには「ボストン中心部を通る高速道路(高架)が街を分断し、住民の空間認識を妨げていると論じた」とあるけど、そんなことは書いてなかったと思う(まだ読み終えてないけどなw)。基本的には、この本は都市環境の工学的変化(車社会化)によって生まれた「新しい場所」(アメリカの都市)での空間認識のあり方を論じている。

以上。

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

新しい場所で うまくやっていけるかな
音楽をかけて 計画をねりねり
今日はなんだかね おもしろいこともないし
リズムにゆられたい んだ ワンルーム・ディスコ


昼間みたい 街の明かりが
星空を みえなくする
たくさんの まぶしい光
とけて消えちゃいそうだ

Perfume、ワンルーム・ディスコ

(リンクが切れていたらここ

*1:沖縄(コンビニ)、into the virtual(ケータイ・ショップ)、World of Tomorrow(「ケータイ都市」のアイデアコンペ)参照。ちなみに、タイトル画像の変更は、前の12月1日「雑記4」のときと変わらず、「なぜかシステムが反応してくれない(泣)」だった。「はてな」側にバグがあるらしい。これは、「設定」のページでタイトル画像を変更した後、「強制再読込」すると解決する。「はてなダイアリーについて よくあるお問い合わせ」より。

*2:無印都市参照(ケヴィン・リンチ)。

*3:例えば、babyismのNatural World-1で書いたように、エベネザー・ハワードの「田園都市」は中世主義とは関係ない。また、babyismのNatural World-4の補足で書いたように、ル・コルビュジエは都市計画に経済(財源)の仕組みを取り込んでいる。まあ、ハワードとル・コルビュジエに関しては、僕が「原典」主義的すぎると言えるかも。この二人を社会がどう解釈・受容したかという視点よりも、二人が実際に何を本に記しているかを中心に「歴史」を見ているとも言える。うーん。

*4:1月12日「アルチュセール」参照(アルチュセール)。

*5:おまけで、「都市史」に興味がある方には、12月28日「ノエル」4で少し書いた「都市計画の世界史」(日端康雄著)を薦めます。ページ数は多いけれど、この本もサラッと読める。あと、「都市デザイン―野望と誤算」(ジョナサン・バーネット著)も薦めます。この本はサラッとは読めないけれど、僕の“バイブル”みたいな本ですw。詳しくはアマゾンのカスタマーレビュー参照。

*6:12月28日「ノエル」2参照(諦めてしまった人々)。

*7:For Tomorrow(「ユビキタス的リアリズム」)、9月3日「抹消された「渋谷」」(「相対的に大きな情報アーカイヴ」としての「渋谷」)、10月13日「イオンレイクタウン」(「アイコン」)、12月28日「ノエル」3(「空間が記号化している」)参照。ついでに、建築家の磯崎新は、「新建築」2009年3月号の「〈建築〉/建築(物)/アーキテクチャー」の記事で、「アイコン」は「最初は画面上の印だった。それが今ではメディア内で流れる情報を仕分けし、差異化するイメージを代理し始めている」と述べている。また、「プロテスタンティズムモダニズムもその運動の始まりは、アイコンの破壊だった」、「バーチャルなメディアの世界では、伝達に独特の型が要請される。時には言葉であり、時には兆候(サイン)となる」、「IT革命のあげく、ウェブ・インフラがグローバルに整備され、その中では唯一実在すると考えられた身体が投入されている世界とは異なる法則が働き始めた。疑われなかった空間・時間でさえ圧縮されて、順序と距離に置換されている」、「このバーチャルな場は、ひとつの発明品であり、操作可能に設計され、あげくに勝手に増殖している」とも述べている。

*8:「公共性」と「経済性」の話は、ル・コルビュジエから論じると面白いと思っている。なぜなら、「300万人のための現代都市」(1922年)では、都市の中心がビジネス・センター(高層のオフィスビル群)であるのに対して、後の「輝く都市」(1930年)では、高層のオフィスビル群は図面上方(人体で例えると頭部)へ追いやられて、都市の中心には「公共空間」が配置されているからである(「サン・ディエの都市計画」(1945年)でも)。このようにして都市の中心の用途(機能)が入れ替わった点については、チャールズ・ジェンクスが「ル・コルビュジエ」(1978年)でも指摘している。ただ、そのような「公共空間」は現実では「無人の吹きさらしの大広場となる傾向があった」ので、それほど成功しているとは言えないし、また、建築家のレム・コールハースは、「OMA/レム・コールハースのジェネリック・シティ」(1995年)で、現在つくられている公共空間の多くは、「存在しないコミュニティを公に宣言し――秩序という妄想を夢見る、ノスタルジックなタペストリー」である(「死体の防腐処理」である)として、これは「危険」である(「真正」ではない)と述べている。更に、じつのところ、建築家も政治家も大衆自身も「公共の生活空間の意味」が分かっていなくて、「信じがたいほどのノスタルジアが邪魔して何かを見直すことも、観察することすらもできないでいる」とも述べている。9月3日「抹消された「渋谷」」参照(「ジェネリック・シティ」)。いずれにせよ、ル・コルビュジエのその2つの都市計画が、1929年の世界恐慌の前後であると思うと意味深である。それは今の日本(と世界)の状況と似ているかも。Natural World-5参照(「かつて中世伽藍が白かったとき、人びとはすべてのことにこぞって参加した。(中略)その影像を心に留めなければならない」、ル・コルビュジエ)。

フロリダ

もうずっとドタバタしております(泣)。宇多田ヒカルブログに「休みたくなったら、休めばいいんじゃね?」と書いているけど、無理っす。えぇと。2月16日(月)夜のNHK「沸騰都市」の「TOKYOモンスター」は一応、見たけれど、まあ、いいか。そのうち書く。

3月1日(日)朝のフジテレビの「新報道2001」に、建築家の安藤忠雄が出ていて驚いた。その番組には民主党菅直人も出ていて、前回の2月10日「クルーグマン」で書いた「高速道路の無料化」の話や、babyismの誤算-3で書いた「東京湾アクアライン」の話や、Natural World-2で書いた本州と四国を繋いだ橋による「ストロー効果」の話が取り上げられていて、興味津々で僕は見ていたのだけど、「高速道路の無料化」が「ストロー効果」を招くという考え方(「組み合わせ」方)は、民主党の人には無いらしい。まあ、いいか。「政治」を僕の身近に引き寄せて考えてみることはできたかも。

後半は「安藤」特集だった。安藤事務所が「道場」と呼ばれていて、所員はスパルタ的にビシバシと鍛えられていた。とても羨ましいと思った、と言うのも、僕は建築の「企画」と「計画」の事務所の出身で、今は「設計」も手掛けているけど、ほとんど独学なんですよ(泣)。いわゆる「設計」での徒弟的な暗黙知(と継承する責務)が僕には無いんです(泣)。と言っても、別にそれを殊更、重く考えているわけでもなくてw、むしろ、21世紀固有の情報化とCAD化によって、独学がし易い環境が整っていることに留意すべきかも知れない(その良し悪しは別にして)。まあ、難しいのは人に「教える」ときですね、僕が誰かから教わったのであれば、僕が教わったように「教える」ことができるけど、それができないのは辛いかも。

あと、3月1日(日)夜のテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」の「大都会ドブ川の奇跡 2009」が凄かった。感動した。僕の地元(柏市)の大堀川とは大違いだと思った(babyismのX参照)。そして、前回の2月10日「クルーグマン」の記事で、僕の都市理論の「シナリオ」に「環境問題」を利用しようとしていた自分が、急に恥ずかしく思えたけど、とりあえず、社会学者の宮台真司のせいにした(おいw)。*1

では、えぇと。

えぇと…

特に書くことない。

Σ(・ω・ノ)ノ

ドタバタしておりやす。うーん、そう言えば、今年の冬は風呂によく浸かっている。babyismのIntegral Project-3の記事で「冬が苦手(夏はもっと苦手)」と書いたけど、それ加えて僕は「烏の行水」 で、風呂に「浸かる」というライフスタイルが、これまでの僕の人生にはなかった(その割には僕は「温泉」好きだったりするけど、割愛w)。あと、近頃、自宅でも酒を飲むようになった(ビールがうまい)。このブログ(ウェブ日記)の「プロフィール」の画像では、ミッフィー(うさこ)が小生意気に「酒」とか書いているけど*2、基本的に僕は自宅ではほとんど酒を飲まない人だった。たぶん、僕が酒を飲むようになったのは、酔っていない(素面の)状態が、面倒になったからではないかと思う*3。まあ、とにかく、そんなわけで、基本的に僕が「読書」するのは、ほとんど電車の中だけで、そのせいなのか、どうしても読む本が新書やSD選書等の、軽くて小さい本に偏っている、ということに先月、気付いた(ワラ)。

とりあえず、前回の2月10日「クルーグマン」で書いた、「用途混合」型の都市モデルの「シナリオ」を作ろうと思い、それならば、やはり、都市思想家のジェイン・ジェイコブズ*4や、都市経済学者のリチャード・フロリダ*5の理論と「パッチワーク(接ぎ合わせ)」*6すれば良いと思い、リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラスの世紀」(2007年)の次の「クリエイティブ資本論」(2008年)を読み始めたら、(本が重くて)筋肉痛になった(泣)。これはまずい、読めないよ、というか、iPodや携帯電話等の機器はどんどん軽量化・小型化されている輝く21世紀なのだから、これは本が間違っていることにした(おいっw)。

それでも、まあ、とにかく頑張って耐えて読んで、やっと読み終えたと思ったら、リチャード・フロリダの新著「クリエイティブ都市論」(2009年)が書店に並んでいて驚いた。泣いた(泣)。い、いつの間に。その新著の中身は、以前ネットで読んだ「都市経済学者リチャード・フロリダ 『成功のためなら海外移住も検討せよ』」週刊ダイヤモンド、2008年5月28日)と同じかなと思ったけど、とりあえず、買った。(先に別の本を読み始めていたので)この本はまだ1ページしか見てないけど、その1ページ目(日本語版への序文)の冒頭から少し引用する(下記)。

交通網の拡大とテクノロジーの発展によって、私たちは都市から解放され、田舎や山奥、海のそばへ移ることが可能になるだろう――この数十年、いや過去一世紀の大半にわたって、そんな話を聞かされてきた。山荘や浜辺の別荘で在宅勤務できる時代にあって、狭い割には値段の高い物件に家族を住まわせ、長距離通勤に耐えてまで、東京の窮屈なオフィスで働きたいと望む人はいるだろうか。
ほんの数年前、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、トーマス・フリードマンは、「世界はフラットになった。経済競争の舞台は平均化し、住む場所をどこに選ぼうともグローバル経済に参加できる」と公言した。
しかし私は二〇年以上の研究と調査に基づき、「世界はフラットではない」とあえて言いたい。実際、新しい表現も考えた。現実の世界は鋭い凹凸があって「スパイキー」なのである。*7
(「クリエイティブ都市論」、序文、リチャード・フロリダ)

ここで、リチャード・フロリダが言っているのは、例えば、僕が前に8月27日「どこでもドア」で書いたような、情報空間と都市空間の「乖離」*8に対して、多くの批評家があまりにも無関心である、現実が全く見えていない、結論も誤っている、「世の中が変わろうとしているのに、お前は全然わかってないよな、ジョーンズさん?」(YouTube)*9ということですw。

(。・ω・) ジョーンズ?誰?

とりあえず、「クリエイティブ都市論」はまだ読んでいないので、前作の「クリエイティブ資本論」の概要から書くと、リチャード・フロリダは、まず、「人は日々暮らし働く場所をどのように決めるのか(中略)本当に重要な要因とは何なのか」という「根本的な疑問」を提示して、そして、多角的に検討を行って、「雇用」や「家族」や「コミュニティ」の形態が多様化(または「解体」)した現在の「ポストモダン社会」では、「(かつて)大企業が担っていた経済と社会の中心的な組織単位は、いまや場所が担いつつある」、「場所は、だんだんと私たちにとって重要なアイデンティティとなってきている」と述べている。つまり、この本のキーワードは「場所」なのです。では、この本の第12章「場所の力」から少し引用する(下記)。内容は上記の「クリエイティブ都市論」の序文と同じです。

経済や社会生活における場所の果たす役割をめぐる論争で、主流を占めている見解がいくつかある。それぞれがすべての面で相反するわけではないが、一致することもない。おそらく最も有力な見解は、ニューエコノミーが唱える「地理は死んだ」という神話だろう。インターネットや近代的通信・交通網の発達により、もはや人々が共働するうえで同じ場所に「存在」する必要がなくなり、実際にそのような状況が来るという考えである。この「場所の終焉」説は、電報や電話、自動車や飛行機などの技術が登場するたびに唱えられてきた。ケビン・ケリーは、広く読まれている九八年の著書『ニューエコノミー勝者の条件』の中で、「ニューエコノミーは、場所ではなく新しい宇宙に存在している。時が経つにつれ、経済活動はますますこの新しい宇宙へ移動していく」と書いた。(中略)しかし、これほどあてにならない神話もない。人間が依然、密に集住しているのみならず、経済自体(中略)も、(中略)特定の場所に集中し続けている。
(「クリエイティブ資本論」、第12章、リチャード・フロリダ)

更に上記の文に続けて、「場所とコミュニティは、以前にも増して重要な要因となっている。その大きな理由は、経済自体が、ケリーの示唆するように抽象的な『宇宙』にではなく、人々が現実に集まって暮らす具体的な場所に形成されるから(である)」と述べている。そして、リチャード・フロリダは、この「場所の力」に関して、複数の統計(データ)分析の結果を用いたり、経済学者のアレフレッド・マーシャル(「集積状態が経済自体をうむ」)や経済学者のポール・クルーグマン(「規模の経済」)の理論を援用しながら*10、実質的に「無限」*11の資源であるはずの「クリエイティビティ」(創造性)が、「特定の場所に集中」する傾向にある「現実」を次々に明らかにしていく*12。よって、「インターネット」等が発達しても、「世界はフラットではない」、現実の世界は「スパイキー」なのである、なのです。*13

そして、リチャード・フロリダは、では、その「クリエイティビティ」が集中する都市は、どのような都市であるのかを、事細かく検証していくのだけど、一語で表すと、それは「寛容性」(Tolerance)のある都市です。要するに、「ゲイ」や「オタク」が溶け込めて、自分たちの好きなように生きていける場所(都市)である、ということですw。でも、まあ、これはこれで話が長くなるので、また今度に書くとしてw、とりあえず、僕が面白いと思ったのは、リチャード・フロリダは、この本で何度も、都市思想家のジェイン・ジェイコブズの理論(人的資本論)を援用しているということです。とりあえず、引用だけしておきます(下記)。

ジェーン・ジェイコブスの記念碑的な著作『アメリカ大都市の死と生』(中略)では彼女自身が暮らしていたグリニッジビレッジなど、都市部のクリエイティビティや多様性が称賛されている。(中略)ジェイコブスが近隣地域に見たのはまさに個性や差異であり、社会の相互作用であった。ジェイコブスは、こういった地域の奇跡は路上の喧騒にみられると主張している。多種多様な人々が集う路上は、他人への配慮を生むと同時に、クリエイティビティの源泉でもあった。(中略)いまはジェイコブスが描いた社会が勝利を収めつつある。
(「クリエイティブ資本論」、第2章、リチャード・フロリダ)

ジェイコブスの考察は長い間、経済学界からは無視されてきたが、ここ二〇年ほどの間に、非常に高名な研究者からも真剣に取り上げられ、正当性を実証する経験的事実が示されるようになってきた。数十年前、ジェイコブスは、都市が持つ、クリエイティブな人々を惹きつけ、そして経済発展に拍車をかける能力を指摘した。ノーベル賞経済学者のロバート・ルカーチは、人的資本の集中がもたらす生産性向上が地域の経済成長の決定要因と見なし、これを「ジェーン・ジェイコブス的外部性」と呼んだ。
(「クリエイティブ資本論」、第12章、リチャード・フロリダ)

地域の経済成長は、多様性があり寛容で新しいアイデアに開放的な場所を好むクリエイティブな人々が原動力となる。多様性があればその場所は、さまざまなスキルやアイデアを持つクリエイティブな人々を惹きつける可能性が高くなる。クリエイティブな人々が混じり合う場所では、新しい組み合わせを生みやすい。(中略)ジェーン・ジェイコブスはかつて、イノベーションと都市の成長を活気づけるものとして、企業と人間双方の多様性の役割を強調した。ジェイコブスが述べたように、大都市とは、事実上どんな経歴の人でも受け入れ、その人たちのエネルギーをイノベーションや富に向かわせる場所なのだ。
(「クリエイティブ資本論」、第14章、リチャード・フロリダ)

以上っす。*14

ところで、前に12月10日「エソラ」で、「都市」こそが、21世紀における「公共性」の獲得へ向けた唯一の希望だ、と書いたけど、これと接続できるかもな、と思って、「公共政策」に関することを少し調べてみようと思って、経済学者の後藤和子後藤和智*15ではないよw)の「文化と都市の公共政策」(2005年)という本をタイトル買いしたのだけど、大当たりですとても良い本ですw。今はこの本を読んでいる(電車の中でw)。

(。・ω・) 禁酒すればいいのに。

でも、やはり、「公共性」と「経済性」の理論はちゃんと分けたほうが良いでしょう。リチャード・フロリダは主に「クリエイティビティ」と「経済性」の関係を論じているのに対して、この本では「創造性」(クリエイティビティ)の「自律性」*16が提唱されている。その一方で、僕はその12月10日「エソラ」の前半でも書いたように、「ヨーロッパ製」の「公共性」は、日本に馴染まないだろうと考えている。うーん。いずれにせよ、「公共性」と「経済性」の関係は、これから考えていこうと思ってます。とりあえず、またw引用だけしておきます(下記)。

かつては、財政赤字への対策として、工場誘致政策がとられてきた。しかし、この方策がもはや地域の再生にあたって有効でないことは自明であるが、それでは、どのような政策が地域や都市の再生にあたって展望しうるかという点では、内発的な発展や創造的都市など、J.ジェイコブズの流れを汲む議論が行われてきた。本書も、ジェイコブズの「多様性」や「イノベーションインプロビゼーション(即興的な連鎖反応)」が都市発展の原動力であるという見方を肯定的に受け止めるが、さらに、ジェイコブズの時代には、まだ萌芽にすぎなかった文化産業や創造的産業といった創造性が重要な役割を演じる産業に焦点を合わせて、そのイノベーションインプロビゼーションの可能性と都市発展を展望する。
(「文化と都市の公共政策」、序章、後藤和子)

「創造的都市」というメタファーは、物事をどのように見、どのように捉えるかという抽象的なレベルの議論でもあり、同時に、技術、産業、組織、都市デザインなど広範な実体と関わりを持つと同時に、政策論にもなりうる。
(中略)フロリダの提起はわかりやすいが、それだけに、政策立案者によって現実に政策化される際には、(中略)誤りを導くことは、大いに予想されることである。しかし、(中略)創造性に焦点を合わせて物事を見直すことによって、既存の経済学の理論から出発しながら、現実の実態と既存の理論との乖離が浮き彫りになり、理論そのものを再構成するというプロセスを辿っていることは留意してよい。
(「文化と都市の公共政策」、「創造的都市」というメタファー(暗喩)の波紋、後藤和子)

この記事の冒頭で「特に書くことない。Σ(・ω・ノ)ノ 」と書いた割には、予想外に長くなったw。でも、ほとんどが引用文で、つまり、まだちゃんと自分の頭でよく考えていない、まだ整理していないということですね。

あと、「用途混合」型の都市モデルの「シナリオ」は、他にもいくつか考えたのだけど、最も気に入っているのは、babyismのIntegral Project-3の冒頭で書いた、宇宙誕生から約30万年後までは、光と物質は一つの大きな雲のようなものだった、というコスモロジカルでポエティックな「シナリオ」ですw。一応、原初宇宙は光と物質が「混ざり合った」状態であったという意味です。つまり、「用途混合」型の都市とは、自己組織化に抗って、宇宙が誕生して間もない状態を「永続」させる夢を見る、という都市なのです*17。そして、実を言うと、旧ブログのタイトルの「babyism」は、この「誕生して間もない」という意味だったのです!(嘘です、今気付いたw)。いずれにせよ、このようにして「時空」を扱うということ、babyismのIntegral Project-3でも書いたように「時間を空間化する」ということが、「ポストモダン社会」に最も相応しいのではないかとは思ってます(キリッ)。

では、以上でぇす。

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

*1:8月11日「100年後」参照(宮台真司)。

*2:元の画像は「うさこちゃんがっこうへいく」の表紙。ミッフィーのファンの方、ごめんなさい。Airplane House参照(ディック・ブルーナ)。

*3:まあ、音楽で例えると、ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boys)の「Home and Dry」(YouTube)みたいな感じか。忙しくて、君に会えなくて、寂しいよ、でも、僕らはきっとうまく行く、という曲ですw。これ名曲。ちなみに、「Home and Dry」とはこういう意味。また、この曲のプロモーションビデオは、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)が手掛けた(と動画に書いてある)。

*4:12月28日「ノエル」参照(ジェイン・ジェイコブズ)。経済学者の小島寛之「魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則」も参照。

*5:11月9日「マンハッタンのゆくえ(後)」12月1日「雑記4」12月28日「ノエル」参照(リチャード・フロリダ)。というか、リチャード・フロリダは全く書いていなかった(泣)。参照しなくていいっすw。

*6:12月28日「ノエル」1月12日「アルチュセール」参照(パッチワーク)。おまけで、レム・コールハース「Prada Transformer」(2008年)がとても「パッチワーク」的で良い。「くるくるっと転回する感覚」「強引」さ(「無理やり」さ)もある。あと、話はずっと外れるけど、「パッチワーク通信」(2009年4月号)という本を買ったw。この本については、またいずれ書く。

*7:「スパイキー」な世界の図は、リチャード・フロリダのこのページにある。ついでに、上記の「週刊ダイヤモンド」のネットの記事に書かれている「世界経済に君臨する40のメガ地域」の図は、同ページの「Mega-Regions of North America」「Mega-Regions of Europe」「Mega-Regions of Asia」にある。僕が関心を持ったのは、その「メガ地域」の大きさ(スケール)で、8月27日「どこでもドア」8月30日「スロー雷雨」等の記事で、都市空間は「有限」であると書いたけど、「メガ地域」も有限であると思われる。そして、その有限な「メガ地域」の大きさと日本の国土の大きさを比較してみるという視点はとても重要のように思われる。つまり、「メガ地域」は経済のグローバル化によって「都市と地方の格差」が生じることを表しているけれど、同時に、日本の国土全体が「メガ地域」内に収まるのではないかという可能性も表しているのです。これは、「都市」対「地方」という二元的な図式を越えるダイナミックな視点(理論)を獲得する可能性があることを示唆している。2月10日「クルーグマン」参照(国土)。

*8:月尾嘉男ドクター月尾)は、「環境共生型社会のグランドデザイン」(2003年)という本で、「速度という便益でみれば、自動車は20倍の便益を人間にもたらすが、同時にエネルギー消費も20倍」で、「『技術』には多かれ少なかれそういう性質がある」と述べている。それに対して、「情報通信が初めて便益の向上とエネルギー消費が比例しない技術」で、「近代以降は通信技術が圧倒的に発達した結果、『交通』と『通信』が大きく乖離した」と述べている。

*9:ボブ・ディラン(Bob Dylan)、「Ballad Of A Thin Man」(1965年)の歌詞。「クリエイティブ資本論」の第1章の冒頭に引用されている。

*10:12月28日「ノエル」(工場の立地、「経済の原則」、雪だるま)、2月10日「クルーグマン」(高速道路、輸送費、都市への集積)参照。

*11:8月27日「どこでもドア」8月30日「スロー雷雨」参照(無限)。リチャード・フロリダは、「クリエイティビティは実質的に無限の資源」、「クリエイティビティは天然資源のように蓄積し、奪い合い、売り買いができる有形な資産ではない」、「クリエイティビティは継承することも、伝統的な意味で『所有』することもできない」と述べている。これは、8月11日「100年後」で書いた「ひろゆきが語る」の話と近い。

*12:今更でもないけど、東京は「クリエイティブ」な都市である。「東京都への人口移動で特徴的なことは、10代後半から20代前半(15〜24歳)にかけて、大学進学と就職を目指して流入する者が多いことである。雇用を吸収する産業だけでなく、教育、文化、芸術等のさまざまな施設が集中していることが人を集めてきたのである」(鬼頭宏著「人口で見る日本史」、2007年)。

*13:「クリエイティブ資本論」の第17章(最終章)では、この「場所」について、「企業、職業、そして家族までもが流動的になっているために、(中略)均質化する社会のなかで唯一真に不変のものになっている。地図の上に固定されていることで、それらは社会単位として持続していく」と述べている。リチャード・フロリダは「ポストモダン社会」をよく観察しているので、この本は「ポストモダン社会」論としても読むことができる。

*14:宇野常寛は、「新潮(2009年1月号)」の「母性のディストピア――ポスト戦後の想像力(三)」で、「もしあなたが、文化の多様性だとか地理に規定された文化とその歴史の重みだとか、そういったものを主張することで、この<不可視の環境>のもつ政治性に対応できると考えているのならば、その認識は完全に問題のありかを捉え損なっていると言わざるを得ない」と述べているけど、これはリチャード・フロリダの本とはまるで逆である。と言っても、その「不可視の環境」が僕には分からないのだけどねw。日本における反米思想(「アメリカニズム批判」)が「無効化」した現在(「ゼロ年代」)の、「グローバリゼーション」に起因する何からしいけど、その前提もよく分からない。「不可視の環境」とは単に「資本主義」のことではないかとも思える。でも、「普遍的な原理」を発見しようとしているのではないかと見えなくもない点と、日本人評論家が好む「ヨーロッパ製のソファー」に座ろうとせず、あくまで日本の文化(文学、アニメ等)から日本の社会を論じようとしている点は評価している。8月30日「スロー雷雨」9月3日「抹消された「渋谷」」10月2日「別世界性」参照(宇野常寛)。

*15:USD to KRW参照(後藤和智、「東京だけが正義ではない」、と三浦展を批判)。

*16:「自律性」とは、「創造性」(クリエイティビティ)を「経済性」から一旦、切り離すという意味。つまり、「公共政策」によって「創造性」を保護するということ。この本では、「創造性」のある空間(環境)をつくることが、後にそれが「経済性」へ結び付く、という流れをつくる可能性を論じている。と言っても、まだ半分も読んでないけどね。一応、リチャード・フロリダも、「クリエイティブ資本論」では、「クリエイティビティ」は公共財として管理されるべきであるとも書いている。両者の違いは、簡単に言うと、リチャード・フロリダの「創造性」は、あらゆる場面で(レストランの皿洗いでも)発揮されるべきものとしているのに対して、後藤和子の「創造性」は、文化産業(いわゆる芸術、アート)に重点が置かれている。

*17:音楽で例えると、サザンオールスターズ「愛の言霊〜Spiritual Message」(YouTube)と、PUFFY「アジアの純真」(YouTube)かな。歌詞を追うと、そう思えなくもないw。一応、歌詞はそれぞれ、「生まれく抒情詩とは 蒼き星の挿話/ 童っぱラッパ 名も無い花のために/ カゴメカゴメ 時間よ止まれ」と、「地図の黄河に 星座を 全部 浮かべて/ ピュアなハートが 誰かに めぐり会えそうに 流されて行く/ 未来の方へ」です。この2つの曲は、1996年5月に(同時期に)発売された。その前年の1995年に「阪神・淡路大震災」「地下鉄サリン事件」があったと思うと意味深である。

クルーグマン

ドタバタしております。さて、うーん。まあ、書きながら何を書くかを考える。記事タイトルは後で決める。

先月(ステテコ履いていたけど)風邪ひいた。喉にくる症状。そして、仕事の後、なぜか急に「ヨーグルト」が食べたくなったので、近所のスーパーへ買いに行くと、ヨーグルトが4個入りでなんと「148円」だった。驚いた。僕のイメージではヨーグルトは「高級なおやつ」なのに(泣)。まあ、うちの親は躾(しつけ)が厳しいほうだったから、自然とそう思ったのかもなぁとか、熱っぽいアタマで適当に考えつつ、家に帰って早速ヨーグルトを食べる。旨い。冷たいヨーグルトが喉をつるんと滑るときの喉越しがたまらなく気持ちいい、ああ、だからヨーグルトが無性に食べたくなったのかw。そして、あっという間にヨーグルトを3個食べる。これすごい贅沢、と思ったけど、それでも111円(=148円÷4個×3個)。つくづく、いろんな意味で不思議だと思った。風邪はすぐ治った。乳酸菌のおかげかも。風邪と乳酸菌が関係あるかは、また別の話w。

他にも、先月は不思議な出来事がいくつかあった。つくづく、人は不思議だと思った。でも、そういう話を続けると、何となく、ありがちの方向(結論)へ行きそうなので、(ヨーグルトで)止める。

えぇと。

1月25日(日)の朝、チャンネルをプチプチと回していたら、テレビ朝日「サンデープロジェクト」に経済学者のポール・クルーグマンが出ていて驚いた。ポール・クルーグマンは以前、YouTubeで見ていたので風貌は知っていたけど、まあ、テレビにはネットにはない「お茶の間」感があるwと思った。その番組は見てない。

1月25日(日)夜のNHK「沸騰都市」の「ヨハネスブルク」の回は録画で見た。とあるホテル経営者が語った「ヨハネスブルクはあまりにも速く、騒々しく、過剰です」の言葉が心に残る。でも、番組は失敗していると思った。番組の取材中に「世界金融危機」が急に深まったせいなのか、番組の前半と後半で趣旨が一転していた。また、ヨハネスブルクは「世界最悪の犯罪都市*1としても知られている。今では、街中に監視カメラが設置されている。2010年には、ワールドカップが開催される。「ソウェト」と呼ばれるスラム街の近くで巨大スタジアムが工事中である(「ソウェト」は取り壊されるらしい)。そして、その「ソウェト」にはショッピングモール(「マポーニャモール」、6.5万平方メートル)が2007年にオープンしている(番組ではそのマポーニャ氏も密着取材している)、そんな番組でした。*2

(。・ω・) どんな番組だよ。

1月26日(月)夜のNHK「トップランナー」(アートディレクターの森本千絵*3)と、1月27日(火)夜の同じくNHK「爆笑問題のニッポンの教養」の「建築のチカラ」(建築家の西沢立衛)は一応、録画した。ぼちぼち見る。

2月1日(日)の「全豪オープン」の男子シングルスの決勝(フェデラー対ナダル)*4は見てない。衛星生中継のあの心のトキメキは、録画やYouTubeでは味わえない(泣)。ところで、ウィンブルドンのセンターコートに開閉式の屋根が完成したらしい。うーん。そこまで環境(天候)をコントロールしなくてもいいのに。僕はウィンブルドンの通り雨(試合中断の「間」)が好きだったのに。イギリス紳士は雨が降っても「A good day for ducks」と挨拶すると大学の英語の先生は言っていたのに。残念かも。

えぇと。

σ(・ω・*) カタカタ。

では、テレビの次は、最近のニュースをいくつか(下記)。

橋下知事、御手洗経団連会長と会談「関西一丸となれば関東抜く」
産経新聞、2009年1月22日)
大阪府橋下徹知事は22日、府庁で日本経団連御手洗冨士夫会長と道州制などについて会談。御手洗会長が「知事は道州制を推進しており、親近感をもっている。地方から国民運動として盛り上げないといけない」と述べると、橋下知事は「国の案を待つだけという現在の文化を変えなければならない。関西が一丸となれば関東を抜くと思う」と応じた。
また、橋下知事は「大阪はベイエリア太陽光発電など新エネルギーの供給拠点にしたい」と話し、府が進める新エネルギー政策について、経済界からの協力を求めた。

このニュースは、11月16日「雑記3」の「関東大震災がチャンス」と、12月1日「雑記4」の「橋下知事が“新都市構想”」のニュースとの関連で。

道州制」は、いずれ調べようとは思ってます。でも、個人的には、「大きな政府」とか「小さな政府」とか、そういう問題ではないようにも思えます。詳しくはbabyismの超郊外の景色参照で。個人的には、小沢一郎「300基礎自治体構想」*5がベターであると思ってます。そのついでに、民主党は以前、地方を活性化するために「高速道路の原則無料化」を公約に掲げていたけど、ポール・クルーグマンの理論が正しいならば、「輸送費が小さければ小さいほど、都市への集積が起こりやすい」ので、高速道路を無料化すると、地方はますます衰退する。これは12月28日「ノエル」の4で書いた「工場の立地」の話と同じです。この空間観が「リアル」です。

それと、「工場三法」という法があったらしい。今頃になって、それを知ったのは、かなり問題かも知れないけど、その法は「都市部に(中略)人口・産業の過度の集中を防ぐこと」を目的としていたようである。要するに、babyismのIntegral Project-3で「国土の均整のとれた発展(持続可能性)」と僕が書いたようなことを、日本は戦後の50年間ずっと続けていた、とも言えなくない。例えば、田中角栄「日本列島改造論」(1972年)でも、「地方に新幹線や高速道路や空港(中略)を完備し、首都には『工場追い出し税』などの政策を行うことにより、東京都区部から地方へ産業を追い出し、東京都区部の人口を逆流しようという政策」が掲げられている。

/(^o^)\ ナンテコッタイ。

そして、この「工場三法」が廃止されたのは2002年。すなわち、小泉内閣(2001年〜2006年)の時である。babyismのMaterial World-2で書いた「都市再生法」容積率制限の規制緩和等)の制定も2002年である。これは「構造改革」新自由主義*6)というあれか。小泉純一郎は演説で「自民党をぶっ壊す」と熱弁したとか、「壊し屋」と呼ばれていたとかは知っていたけど、今頃になって、やっと、小泉が何を「壊した」のか(僕にも)分かった気がした。

その一方、「工場三法」のウィキペディアには「工場三法が近畿地方の相対的地位低下、東京一極集中を進める要因の1つとなった」と書いてある。検索してみると、工場三法は「近畿衰退促進法」と揶揄されている。確かに、babyismの都市と工場-1に載せた「新設工場面積(大阪府)」のグラフを見ると、工場三法が廃止された2002年以降の伸び方は、ちょっと変かも。あれ?

(メ・ん・)

これは謎です。

では、次。ニュースをもう一つ(下記)。

総務相 今後の合併推進に慎重

NHKニュース、2009年1月31日)
閣僚が国民から直接意見を聞く「対話集会」が宇都宮市で開かれ、鳩山総務大臣市町村合併について(中略)、「風土の違う自治体をいっしょにしたら混乱するし、地域の特色がなくなってしまう。これ以上の市町村合併はいかがなものかと思う」と述べ、今後さらに合併を推進していくことに慎重な姿勢を示しました。また鳩山大臣は「今の東京は異常に膨れあがりすぎている。わたしは首都機能の移転を絶対に行うべきだと思っている。場合によっては遷都でもいい」と述べ、首都機能の移転の実現に強い意欲を示しました。

「今の東京は異常に膨れあがりすぎている」のです。そこだけ「Lサイズ」(大文字)にしたのは依怙地(えこじ)過ぎるかも知れないけどw、主張にはブレがないほうが良い。前に11月2日「マンハッタンのゆくえ(前)」で書いたけど、この「はてな」日記のタイトルの「用心シロ!…」はこの意味でもある。とは言え、僕は「都市経済学」は、経済学者の金本良嗣のこのページ等を読んで、何となく分かった気になっている程度です。もちろん、今までのような(戦後50年間の)やり方では駄目だとも思ってます。実際に、うまく機能してない。

あと、「首都機能の移転」も僕は賛成です。新首都は福島県辺りが良いでしょう、何となくw。「首都機能の移転」の話はまたいずれ書くと思います、というか、前記事の1月12日「アルチュセール」で「都市モデルがドンドン増えて行く」と書いたけど、日本の新首都の都市モデルも、つい考えてしまったw。これは悪い癖(病気)かも知れない。ただ、今までとは少し嗜好を変えていて、「理論」性に加えて、何ていうか、「シナリオ」性のようなものを考え始めている。

変な話、僕が東京は過密(過大)であると主張することと、自立した「都市理論」(都市モデル)を構築することは、「シナリオ」的に正しいのです。今更でもないけど、エベネザー・ハワードは過密都市・ロンドンを批判して「田園都市」(1902年)を掲げ、ル・コルビュジエ過密都市・パリを批判して「300万人のための現代都市」(1922年)や「ヴォアザン計画」(1925年)を掲げたのです。

また、(東京の過大を批判する以外の)別の「シナリオ」としては、babyismのIntegral Project-3で引用した国連発表*7の「現在の世界人口に占める都市居住者の人口の割合は約2分の1で、2020年には3分の2に増加する」を前提におくこともできる*8。なぜなら、8月11日「100年後」に書いたけど、「効率性の原理」をベースにしている僕の都市理論は、「エネルギー消費量や環境問題」と相性が良いからです。

ある意味、「シナリオ」性とは「詐術」でもあるけど、それを僕は「フィクション」だと考える。それは建築家のレム・コールハースの技法でもある。そして、なぜハワードが著書「明日の田園都市」で、美術評論家ジョン・ラスキンや経済学者のアレフレッド・マーシャルの言葉を引用したのか、なぜル・コルビュジエが著書「ユルバニスム」で、パリの新聞の切り抜き(交通事故を伝える記事や風刺画)をたくさん貼ったのか、の理由を、今頃になって、やっと把握した。

(。・ω・) 記事、長いよ。

とりあえず、「用途混合」型の都市モデルの「シナリオ」性の可能性について、ぼちぼち、考えようと思ってます。度々、僕が提案している「トランジットシティ」は、「シナリオ」度が低いです。よって、「面白味」はあまりないのかも。以上です。

今回は、主に「国策」について書いたけど、僕が関心を持つのは、「国策」への入射角が「理論」である場合においてのみです、念のため。それから、経済学者のポール・クルーグマンは「自分のした仕事」について、こう述べてます(下記)。

About the work
ニューヨーク・タイムズ、2008年10月15日)
You may ask, where’s the policy implication of all this? Actually, the policy morals are fairly subtle – for example new trade theory does suggest a possible role for government interventions, but also suggests bigger gains from trade liberalization. Mainly my work in trade and geography was about understanding the world, not driving a political agenda.

「生活の記録」というブログに日本語訳がある。)

これ(上記)の最後の一文が、カッコイイです。その一方、今の「世界金融危機」に対して、ポール・クルーグマンは「公共事業を進めよう」と提言しています、もちろん理論的に。もちろん僕的には、それが「ケインズ主義」と何が違うのかも、「新自由主義」のどこに問題があったのかもよく分からないのだけどね(笑)。

そんなわけで、この記事のタイトルは「クルーグマン」にします。強引だったかも(笑)。

(タイトルが思い付かなかったので、最後に「クルーグマン」の話を付け足した、の意。)

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

ドタバタ気味なので、ブログの更新頻度は落ちると思う。ちなみに、もうすぐ早朝です。これはまずい。寝ます。

σ(・ω・*) プチ。

*1:「ヨハネスブルク」のウィキペディアによると、「地元警察にて公式発表される殺人事件による犠牲者数は、1日当たりで80名で、外国からの駐在員及び観光客だけでも1日当たりで20名である」らしい。ちなみに、犯罪の多くは「貧しい者」が「金持ち」を狙うというパターンである。それはとても分かりやすい話ではあるけど、それと同時に、警察が「誰」を守っているのかもよく分かる。

*2:「沸騰都市」の最終回は「東京」。「東京一極集中」や「止め処ない東京の膨張ぶり」を描いた番組らしい。2月16日(月)放送。

*3:森本千絵Mr.Childrenのアルバム「SUPERMARKET FANTASY」のジャケットを手がけた人。そのデザインが「エソラ」のプロモーションビデオの原案となっている。12月10日「エソラ」参照。

*4:8月8日「北京オリンピック」参照(フェデラーナダル)。

*5:小沢一郎「日本改造計画」(1993年)にも書いてあるらしい。

*6:Integral Project-3参照(新自由主義)。

*7:「世界人口白書 2007 〜拡大する都市の可能性を引き出す」

*8:日経ビジネス「中国、百万都市が220に増えて変わること」(2008年11月20日)も参照。少し抜粋すると、「(前略)その数字を見ると圧倒される。2025年までの17年間で、現在の全米人口を上回る3億5000万人が農村部から都市部に移動する。これにより都市人口は現在の6億人弱から10億人近くに達し、中国の全人口の3分の2以上が都市部に集中する。(中略)新たな都市移住者の受け皿となるのは、人口1000万人以上の8つの巨大都市、及び500万〜1000万人の15の大都市だ。さらに、2025年までに少なくとも221の都市が人口100万人以上を擁するようになる(中略)。これに対し、現在の欧州全域の100万都市はわずか35都市にすぎない(後略)」とある。同様の都市化は他の国々でも起こる。

アルチュセール

寒いっす、とっくにステテコ履いてます(11月16日「雑記3」参照)。まあ、今更、下着を気にするのもおかしな話ですけどね(笑)、あの意味で。

さて、そういうどうでもいい話は今年はなるたけ控えるとしてw、前回の12月28日「ノエル」を今読み返してみて、やはり、その記事の「5」の後半の記述がしっくりこないと思った。「複数の論理(理論)がパッチワークのように貼り合わせられるような抽象的な空間の感覚」の空間感に、今後の可能性が封印されてしまっているかのような、そんな違和感を覚えた。根本的に、僕と僕の都市理論の関係は「簡単な(仮想の)都市モデルを組み立てて、解いて、計算」するという作業の繰り返し*1であり、すなわち、暗黙知*2的なものであり、この作業場(現場)の空間感を言葉で表すのは難しい。でも、これは暗黙知なのだからと排他的にブログ(ウェブ日記)を書き進めるくらいなら、余計なことは書かないほうがまだまし。うーん、これは、哲学者のルイ・アルチュセールの本を読んで勉強してみればいいのだろうか。

(。・ω・) んー。

でも、それだと、アルチュセールを読む前に、カール・マルクスをしっかり読まなければならない。でも、そんなことをしたら、前回の12月28日「ノエル」で「僕は左翼になろうかなぁ」と冗談で書いたけど、僕は本当に左翼になってしまう…、なわけないかw。確かに、都市を「効率性の原理」から理論付けているという面である程度、僕は唯物論的であるのかも知れないけど、でも、それは単に「磁場」や「ベクトル場」*3のようなものに過ぎず、前に、8月27日「どこでもドア」で「片方では『どこでもドア』を目指しつつも、もう片方ではそれとは別の何かを含んだものになる」と書いたように、その後者(「別の何か」)のほうが重要で、今の僕の最大の関心事で、それをアレコレと考えているうちに「パッチワーク」としか言いようのないような妙に抽象的な超共時的空間へと迷い込んで、その迷宮の全体像*4の美しさについウットリとしてしまったのです(前回は)。よって、言葉が全く出て来ない。だから、アルチュセールを読むべきだろうか、マルクスを読むべきだろうか、いや、その前にヘーゲルを読むべきだろうか。

ちなみに、先週は「ル・コルビュジエの全住宅」東京大学工学部建築学安藤忠雄研究室編集)の図面集を丹念に見て、ウットリしていた(おいっw)。ル・コルビュジエ*5が設計した有名な住宅はどれも好きだけど、それらをあえて外して僕の好きな住宅作品を3つ選ぶと、「シトロアン型住宅」1920年)、「クック邸」(1926年)、「カネル邸」(1929年)です。特に「クック邸」と「カネル邸」の平面図が好きですね*6。うーん、このブログ(ウェブ日記)はこれからそういうブログにしようかな(笑)。建築(論)は10月2日「別世界性」を書いて以来、全然書いてないし。*7

建築家の安藤忠雄は、(建築家になる前に)ル・コルビュジエの図面をトレース(模写)しまくっていたという話を教わって、僕もそれを真似ていた学生時代が蘇る。あらゆる学問の源泉は、そういった地道な「訓練」にあるのかも知れない…けど、そういう考えはもう古臭いのかも。書店に行くと、必勝本、マニュアル本、ガイドブック、インスタントな「人生本」等が溢れてますからね(僕もたまに買うw)。まあ、生き方として必要な素養は自身の「交換可能性」と「交換不可能性」の両方だと思います。そして、特に建築において必要なのは後者のほう、すなわち、「別世界性」なのだと改めて思います。ル・コルビュジエは「真理」を追求した人ではあったけど(先週はC.ジェンクス著「ル・コルビュジエ」*8も読んだ)、まあ、これについてはまた今度書く。

とりあえず、ル・コルビュジエの凄いところは多少、強引であったとはいえ、建築(論)と都市(計画)論を「総合」したということです。ル・コルビュジエが描いた「300万人のための現代都市」(1922年)は本当に凄いのです、という話を、エベネザー・ハワードの「田園都市」と対比させながら、何か書こうと思ってます。ウットリとしていては、前へは進まない(笑)。

でも、話が随分それている。気儘に書きすぎた(泣)。一旦、ここで「下書き保存」と。

σ(・ω・*) クリック。

では、アルチュセールのウィキペディアから少し引用します(下記)。

哲学―「書かれざる」「実践の状態にある」弁証法

(前略)いわゆる理論もまた、概念を生産するための、一種の実践である。ゆえに彼(アルチュセール)は、広義の理論活動を「理論的実践」と定義する。そして、諸々の理論が「理論的実践」ならば、そうした実践そのものの一般理論、理論的実践の過程の理論(大文字の≪理論≫)もまた存在する。このような発想から、『経済学批判要綱』の「序説」を引用しつつ、「科学は、具体的な物ではなく、一般性に働きかけ、新たな概念を生み出す」という一般理論を、アルチュセールは見出すのである。

(中略)では、このような一般理論、このような弁証法をもとにマルクスが作り上げた理論や概念は、いかなる意味において重要なのか。それを理解するには(中略)「兆候的読解」に対する理解が必要となる。ある問題においては、問いの不在(見えているがゆえに不可視となっているもの)があり、それを適切に見出す読みが、兆候的な読み方である。マルクスは、当時の古典経済学に対して、その読み方を実践したのだ。(後略)

この辺(上記)が今の僕に役立ちそうだけど、何となくしか分からない(泣)。僕が言う「パッチワーク」は上記の「大文字の≪理論≫」になれるのかな。ついでに、同ウィキペディアから、もう一つ引用します(下記)。前回の12月28日「ノエル」の「4」で書いたことや、babyismのIntegral Project-2の末尾(追記)で、「『移動距離・時間の最小化』という工学から作っているこの僕のユートピアは『交通格差をなくす』という思想(イデオロギー)へ結びつく、謎です」と書いたことの、良いヒントなのかも知れない。

イデオロギー

とりわけ前期の思想では、イデオロギーとは、科学的方法から厳密に排除されるべきバグに他ならなかった。しかし、アルチュセールがその思想を練り直し幾つもの軌道修正を加えるにつれ、イデオロギーの積極的効果に焦点が移る。曰くイデオロギーとは、人間が主体として既存の社会関係に与するための保証を与えているものである。(後略)

とりあえず、ウィキペディアウィキペディアですけどね、便利ではあるけど。抽象的な哲学の用語はあまり詳しくないので、具体例から書くと、babyismのIntegral Project-1等で掲げている都市の「用途混合」というのは、じつは全く効率的ではなく、8月27日「どこでもドア」の注釈3にも書いたけど、「用途混合」には理論的な「担保」がないのです。*9

そして、もっと分かりやすい具体例は、babyismのIntegral Project-3の5で僕が提案した「トランジットシティ」です。12月10日「エソラ」では、「コンパクトシティ」を「かなり無謀」だと否定して、「トランジットシティ」の妥当性をやや乱暴に説明しているわけだけど、でも、根本的に僕は地方都市の中心市街地を再生させる必然はない*10、と考えているのです(僕の地元の柏市は除く)。

そうなると、いくつかの作成済みの「用途混合」型の都市モデルや「トランジットシティ」の意味は何なのか。更に、前回の12月28日「ノエル」の末尾(追記)に「『経済性』を組み込んだ『公共空間』のある新・都市モデル(クリスマス・リースみたいな形の)を作った」と書いたように(この都市モデルについては、いずれ書きます)、都市モデルがドンドン増えて行くのです。更に、「東京倍増計画」(これは戦略的にブログに書かない)という案も考えた*11。それから更に、既に作成した都市モデル同士で、たまたまだろうけど、結合できる関係もあるのです。そして、その結合できる都市モデル同士を組み合わせた新しい都市モデルには、もはや曖昧であるとしか言いようがないような、よく分からない質(でも、よく出来ている)が生まれてきているのです。それは論理ではなく、カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせたというだけのもの、すなわち、形態が論理に先行してしまっているものなのです。冒頭で「ウットリとしてしまう」と書いたのは、具体的には、このことです。

これはどういうことなのだろうか。ここまで来ると、僕の頭ではもうついていけません(泣)。アルチュセールを読めば、僕でも分かるのだろうか(自信は全くない)。でも、まあ、見方を変えれば、それはとても「建築」的(「都市(計画)」的ではなくて)である*12と言えるのかも知れません。「建築」は形態を扱うから。いずれにせよ、ウットリとしていては、何にもならないので(先週は単に正月ボケだけだったかも)、今年も時間を見つけてはボチボチ進めて行こうと思います、

以上です。

(。・ω・) 後は何だっけ?

前回の12月28日「ノエル」の末尾(追記)で、「下北沢再開発」問題について書くと書いたけど、これはノーコメントにします。ほとんど「政治」*13の問題だと思います。僕の都市理論を使うならば、再開発することで得られる効率性と、再開発しないことで得られる効率性(再開発をしないことが必ずしも非効率的だとは言えない*14)を計算して、値の大きいほうを選べばよい、ということになるのだけど、東京は巨大都市なので、理論的には成立できても膨大な計算が必要なため、実際には不可能かも知れない*15。よって、僕の「見解」は、「東京より規模がずっと小さくて計算可能性のある地方都市に投資したほうが賢明である」です。「下北沢再開発」問題から遠く離れてますが(笑)。

その他については、ボチボチ書きます。まあ、あまり「今度書きます」とかは書かないほうがいいのかも知れません(妙なプレッシャーになっているw)。正直言うと、「今度書きます」は僕が話のネタを忘れないための「メモ」(付箋)として書いているのだけど(僕が過去の記事へのリンクをよく貼るのも同様の理由)、後からそのネタをちゃんと書く率が低下している感は否めない(泣)。

時々刻々と変わるこの世界では、そういう未来への妙な拘りは捨てたほうがいいのかも知れません。ついでに、できることなら、スケジュール帳も投げ捨てたい…いや、それは無理、無理(笑)。

ではでは。

(。・ω・)ノシノシ

*1:babyismのIntegral Project-3の5で、通信添削の「Z会」になぞらえて僕の主義を「Z主義」と名付けたけど、これは割と適切で、これと似たようなことを僕はしている。より正確に言うと、「一人Z主義」(出題と解答と添削を全部一人でしている…w)。

*2:9月27日「モーション・タイポグラフィ」参照(暗黙知)。Integral Project-1も参照(「『コツ』として習得し始めると…」)。

*3:10月26日「イオンレイクタウン-3」参照。あと、「磁場」や「ベクトル場」という比ゆ表現を言い換えると、これは徹底して「抽象化された都市」のことであり、同時に、建物が発生・生成する場所はどこかを三次元空間に描く「原初的な建築」のことである。JAの「リサーチの方法」(2008年)という本で、建築家の馬場正尊が「僕らは、場所の発見と、その場所自体が欲している建築を先に構想してしまう」と書かれていたことと発想は近いのかも知れない(いや、違うかも)。ついでに、10+1(No.50)の特集「Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960」(2008年)という本の、建築家の八束はじめの論考「50 Years After 1960」によると、同氏は「巨大高密度都市」を考案中であるらしい。よって、僕は天邪鬼なので、そういう計算はもうしてない(笑)。babyismのFor Tomorrow参照(「極限の高密未来都市」)。でも、八束はじめの計算結果は気になる。都市人口の最大値は8000万人くらいになると思うけど。まあ、僕のこの天邪鬼な性格は、もう直さないと(泣)。

*4:この迷宮を音楽で例えると、ペット・ショップ・ボーイズ「A Red Letter Day」宇多田ヒカル「time will tell」かな、思いつきで。時間の感覚が狂った世界ですw。雲の上へ飛び出せば Always blue sky♪

*5:Natural World-1〜5参照(ル・コルビュジエの年表)。

*6:「クック邸」の写真はここここで図面はここ。「カネル邸」(計画案)の平面図はここで立面図と断面図はここでパースはここ

*7:「イオンレイクタウン」(2008年10月〜)はたくさん書いた。

*8:Natural World-4の補足参照。ちなみに、著者のジェンクスは、ル・コルビュジエニーチェの思想と関係付けている。

*9:その「担保」が12月28日「ノエル」で書いた「ポストモダニズム」にあるとも思えない(現地調査やフィールドワーク等は除く)。ポストモダニズムはどうも分別臭い感じがする(「分別臭い」は、babyismのStrange Paradiseで引用した「無個性の快楽」(レム・コールハース)より。その文章の「回れ右をしたモダニズム」が「ポストモダニズム」です、一応)。

*10:Kinkyo-2参照(「車社会化された現代で駅前商店街が衰退したとしても嘆くことでもない」)。あと、イオンレイクタウン-3も参照(「都心対郊外という二元的な図式はじつはあまり意味がない」、「都市圏を区域に分割して、それぞれの区域を個別にスタティックに捉えるのではなく…」)。

*11:「戦略的に」と書いたのは、僕は東京の一極集中には反対であるから、という意味。ちなみに、「東京倍増計画」は文字通りの計画で、その名前は、「東京計画1960」丹下健三)と「所得倍増計画」(1960年)のかばん語である。

*12:11月9日「マンハッタンのゆくえ(後)」参照(ユナイテッドヌードの「建築的構造」)。

*13:11月16日「雑記3」参照(「政治」)。

*14:9月25日「蘇生」参照(「都心流入率は低いほうが効率がいい」)。再開発しないことによって、都心流入率は減少する。

*15:誤算-1参照(「ハイエクは計算主義を否定する」)。

ノエル

前略。日が空きましたが、とりあえず、ざっと箇条書きで書きます(後日、付け足します)。

1.

とある飲み会?で、名前がカッコイイ方に出会った。思わず、その第一印象を伝えてしまうと、これは本名ではなく「仕事名」なのだと教えてくださった。何という世界。でも、その方は名前を変えることによって環境が大きく変わったと熱く語られた。それは名前を変えたことで、その方のモチベーションが変わったからではないか、と内心では思ったけど、後日、ネットで「姓名判断」で適当に検索して、自分の名前を入力してみると、これが結構当たってる(笑)。それから、その方を真似て、僕の名字は固定して、最も縁起が良さそうな名前を調べてみると、「ノエル」だった。

Σ(・ω・ノ)ノ

でも、面白いかも知れない。「ノエル」に変えてみようかな(笑)。きっと、彼女も大笑い…と思いきや、彼女から意外とマトモな反応が返ってきて、驚いた。まあ、僕はこのブログ(日記)やbabyismでは、ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boys*1ジャミロクワイJamiroquai*2、ブラー(Blur*3等の曲をよく引用しているわけだけど、根本的には僕はオアシス(Oasis)の大ファンだったりする(バンドメンバーにノエル(Noel Gallagher)がいる、という意)。うーん。

2.

12月14日深夜のNHKこの番組(YouTube)を僕が見逃すわけはないのだけど(当然です、キリッ)、その後(前?)の「ブラタモリ」という番組も良かった。表参道の交差点の近くの、細い建物のところの区画が以前から変だと思っていたのだけど、その謎が解けました。東京オリンピック時に、青山通りを拡張したために、通りに面した部分の建物が削り取られて細くなったとのこと。詳しくは番組(YouTube)参照。*4

うーん。

12月10日に発売されたMr.Childrenのアルバム「SUPERMARKET FANTASY」に、「東京」という曲があって、その歌詞をふと思い出す。この曲の歌詞と、8月13日「柏 マイ・ラブ」に書いたMr.Childrenの「ランニングハイ」の歌詞は呼応する。都市の微細な痕跡に執着する人々と、それを諦めてしまった人々が交錯する、そんな「ゼロ年代」も残り一年と数日。

東京を象徴しているロボットみたいなビルの街
(中略)東京は後戻りしない
(中略)思い出がいっぱい詰まった景色だって また
破壊されるから 出来るだけ執着しないようにしてる
Mr.Children、東京

3.

仕事で武蔵野線に乗る機会があったので、帰りに「イオンレイクタウン」へ寄ってみた。日は暮れていたので、街の様子は分からなかった(超真っ暗だったw)けど、煌煌とした店内は、平日なのに凄く賑わっていた。何よりも、客層が若い。それは駅前(越谷レイクタウン駅)に立地していたり(免許のない学生でも電車ですぐ来られる)、平日だったからかも知れないけど(家族連れは休日に来る)、まあ、皆、楽しそうなので、和みますw。というより、そういう和み合うような場所が、ここ(ショッピングモール)なのかも知れませんね。

あと、ここは新しい「トーキョー」なのだと思った。何一つ新しくなく、既に東京にあるものをそのままきれいにパッケージして、空間だけ移動させてできたような場所だったから。とりあえず、他所で見たことがあるような店舗ばかりが延々と並んでいたり、アイスクリーム屋で店員が歌っていたり、ショッピングモール内全体が、建築による内部空間よりもずっと大きな何かに包まれているような感じがした。本当はその建築空間(形式)を見に行ったのに。まあ、それについてはまた今度書く(いや、もう書かないかもw)。

とりあえず、ショッピングモールのモール部分の「吹抜け」は、別に空間演出のためにあるのではなく、端的に言うと、客が迷子にならないために(建物内での方向感覚を与えるために)あるのだけど、「イオンレイクタウン」はまさにその目的のためだけの「吹抜け」になっていたところは面白かった。それはbabyismのGuide to ShoppingKinkyo-2で言及した「ダイヤモンドシティ」(イオンモールむさし村山ミュー)*5とは似て非なる空間です。空間が記号化しているのかな。

4.

今、読んでいる本は日端康雄著「都市計画の世界史」。新聞で少し話題になっていたので、試しに買ってみた。その本に書かれている内容は教科書的であまりにも普通なのだけど、それでも、エベネザー・ハワードはシカゴ郊外の「リバーサイド」に実際に暮らしていたとか*6、「ワシントン首都圏計画」(首都ワシントンを中心に放射状に都市圏を拡大する計画)があるとか*7、「コミュニティ」という用語の定義には94通りもあるとか、いろいろ発見はあった。あと、知らない固有名詞もちょくちょくあって、これで冬休み(帰省中)は、ネット(グーグル検索)で遊べます(笑)。

とりあえず、重要なのはここですね(下記)。

田園都市の自立性を支えるのは雇用の場としての工場の立地である。ハワードは企業家たちが熱意を持って田園都市に産業拠点を移してくるだろうと考えたが、そうはならなかった。
(「都市計画の世界史」、日端康雄)

babyismのWorld of Tomorrowの記事で、工場の立地について少し書いたけど(工場の立地は「市場への近接性」と「原材料等の入手の便」によって決まる)、そういうことなのです*8。これが「経済の原則」です。「田園都市」建設が事実上、失敗した(2つしか建設されなかった)理由はとても明快です。

簡単に整理すると、都市というのは、「経済の原則」だけで生成させれば、(一部の都市だけが)雪だるま式に巨大化する。そして、それと同時に「経済の原則」だけで成長した都市は、19世紀後半のロンドンニューヨークがそうであったように、多数の人々を必ずしも幸せにしない、ということです(「悪循環」が始まって*9、「社会主義社会改良主義)」運動が勃発する)。

現在、私たちが「経済の原則」と「社会主義」の中間的な(複雑系的な)政策をとらざるを得ないということと都市(都市形態)の問題は同義であると言っても過言ではないかも知れません。少なくともハワードは(ル・コルビュジエも)、そのように都市を捉えていたわけです。

ところで、僕は日本の左翼(サヨク)と呼ばれる人々に対して否定的なのだけど*10、何となく、いわゆる「建築界(建築業界)」には左翼が少なさそうなので天邪鬼になって*11、ではなくてw、戦略的に僕は左翼になろうかなぁと少し考えたけれど、とても馬鹿馬鹿しいので止めた(笑)。まあ、都市理論と左翼は相性が良い*12、ということはある。日本の新左翼のバイブルだったらしい羽仁五郎という人の「都市の論理」(1968年)を読めば、左翼に成り済ませるだろうか。また、この本から骨を全部抜いて蒸して高級魚料理にしたのが「サヨク」だろうか。火炎瓶より白ワインがよく似合いそうだけど、この話は次の「5」へ続くー。

(ここまで昨日(12月27日)書いた)

5.

今月は、babyismのIntegral Project-3の2で書いた「ポストモダニズム」を少し復習した。とりあえず、ロバート・ヴェンチューリYouTube)の「建築の多様性と対立性」クリストファー・アレグザンダー「まちづくりの新しい理論」を久々に読んだ。ハワードとル・コルビュジエを同時に批判したジェイン・ジェイコブズYouTube)の「アメリカ大都市の死と生」は最初の5ページで挫折した(泣)。ケヴィン・リンチYouTube)の「都市のイメージ」はなぜか手元になかった(号泣)。

(。・ω・) いい加減な復習。

なぜ今「ポストモダニズム」なのかと言うと、理由は少し複合しているのだけど、とりあえず、僕が僕の都市理論(「効率性」の原理)と都市経済学(Richardson及びEvansの都市サイズ・モデル)を、「ブリコラージュ」*13している、または、「つじつま合わせ」*14をしているから*15。要するに、それは、あまり論理的ではない(少なくとも演繹法*16ではない)からです。

この辺の話を突き詰めて行くと、「全体性」とは何かという問題に達してしまうのだけど、これはもう少し整理してからまた書く…いや、難しそうなので書けないか。

とりあえず、引用だけしておきます。

私は建築における多様性対立性とを好む。

(中略)しかし、多様性と対立性を備えた建築は、断片的な関心の範囲にとどまってしまわずに、常に全体に対する見通しを持つという特別な責務がある。それが真実性を持つのは、それ自身全体性を有している、もしくは全体性を内に含んでいるからに他ならない。それは、排除することで得られる安易な統一よりは、受け入れることで得られる複雑な統一を実現しようとするものである。より多いことはより少ないことではないのだ。

(「建築の多様性と対立性」、ロバート・ヴェンチューリ、1966年)

最後の一文は「もちろんミースの less is more を意識したもの」(翻訳者・注)です。ミースの有名な言葉、「Less is more, more is less」をヴェンチューリは否定した*17。時代はモダニズムからポストモダニズムへ。それから、もう一つ引用します。

(前略)ここでは、今日知られているものとは全く違うまちづくりの方法論を提案することになるでしょう。なぜなら、都市の中に全体性をつくり出す仕事は、それをプロセスとして扱うことによってのみ可能である、と私たちは確信しているからです。まちづくりはデザインだけによって解決されるのではなく、都市がかたちを形成していくプロセスが根本的に変わった時、初めて可能になるのです。
全体性にとって最も大切なのは何にもましてプロセスであり、単なる形ではありません。もしも適切なプロセスがつくり出されたなら、都市に再び全体性を取り戻すことができるでしょう。

(「まちづくりの新しい理論」、クリストファー・アレグザンダー、1987年)

うーん。

僕の都市理論のモデルは共時モデル(式に時間がない)なので、その辺を改良すればいいのかな。babyismのIntegral Project-3の5で、これを熱力学の「状態方程式のようなもの」と例えたのは割と適切で、だから、これを微分して時間を導入する(非平衡熱力学のように局所的に成立させる)といった可能性があるとも言えるけど、でも、それほど僕は賢くない*18。更に、「全体性が消失した」*19とも言われる「ポストモダン」(「ポストモダニズム」以後)の現在に、獲得され得る(または回復され得る)「全体性」が本当にあるのだろうか、から問う必要もあるのかも知れない。*20

いずれにせよ、僕は、複数の論理(理論)が「パッチワーク」のように貼り合わせられるような*21抽象的な空間の感覚は確信していて、そのような非論理(論理の外部)性を高らかに掲げることは僕は決してしないだろうけど、来年(2009年)は、この都市理論を、より具体的な「形」(図、模型、ビジョン*22)にしていこうと思ってます。

ただ、そこで組み立てられる(都市の)「形」は、ベタベタに糊付けされたような強固なものではなく、ドラフティングテープだけで固定されたようなもの、いつでも誰でも簡単に分解可能なものにしておくというスタンスが、その抽象的な空間の「真正さ(authenticity)」を表象するための、一つの手段(または担保)となるのだと思います。

以上です。

あっ、

あれ?

「4」と「5」の話が全くつながってない。

Σ(・ω・ノ)ノ

とりあえず、(モダニズムが否定された)1960年代とポストモダニズムについて、もっと調べてみようと思います(笑)。ついでに、経済学者の小島寛之のブログに「魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則」という記事があります。これは面白い(笑)。

では、良いお年をお迎えくださいますよう心よりお祈り申し上げます。

(追記)

都市経済学(とリチャード・フロリダ)については来年書く。それから、あの「下北沢再開発」問題についての僕の(僕の都市理論を使っての)見解と、12月1日「雑記4」に書いた「ハーフェンシティ」(図面は全て見た)と近代都市計画(ル・コルビュジエ)の相違点と、あと、前回の12月10日「エソラ」で「公共性」と「経済性」について少し書いたけど、「経済性」を組み込んだ「公共空間」のある新・都市モデル(クリスマス・リースみたいな形の)を作ったので、これらも来年書く予定(ぼちぼち、と)。できれば今日書こうと思ってたけど、長くなった。

最後まで読んでくださった方、お疲れ様です、ありがとうございます、来年も宜しくです。さて、僕は大掃除始めないと。

(。・ω・)ノシ

*1:7月31日「日食」参照(ペット・ショップ・ボーイズのリスト)。

*2:9月3日「抹消された「渋谷」」参照(ジャミロクワイ、「Canned Heat」)。

*3:9月25日「蘇生」参照(ブラー、「The Universal」)。

*4:ついでに、ギズモード・ジャパン「細すぎるビルたち写真集」(2008年12月15日)参照。

*5:9月27日「モーション・タイポグラフィ」参照(ダイヤモンドシティ)。

*6:Natural World-3(リバーサイド)、Material World-4の図式(リバーサイド→ハワード→田園都市)参照。

*7:babyismのBeyond Utopiaに貼ったアメリカの「ニューアーバニズム」に関するYouTubeに出てくる「ケントランド」(Kentlands、DPZ設計)はワシントン郊外に位置する。誤算-2(ワシントンの歴史)も参照。

*8:Natural World-2も参照(クルーグマン空間経済学)。

*9:11月9日「マンハッタンのゆくえ(後)」参照(原因と結果の悪循環)。

*10:Integral Project-3参照(日本のサヨクは・・・)。

*11:8月28日「雑記2」参照(天邪鬼)。

*12:Integral Project-2参照(理論とサヨク)。

*13:屋根つきの橋-2グローバリゼーション(town)参照(ブリコラージュ)。

*14:Airplane House参照(ヴェンチューリの「つじつま合わせ」)。

*15:11月9日「マンハッタンのゆくえ(後)」参照(この先の説明には「都市経済学」を使う)。

*16:For Tomorrow参照(「男の美学」)。

*17:10月2日「別世界性」Material World-2Material World-4参照(ミース・ファン・デル・ローエ)。

*18:Integral Project-1の補足参照(自己組織化)。

*19:10月19日「イオンレイクタウン-2」参照(「全体性の消失」、宮台真司)。

*20:12月10日「エソラ」の注釈11参照(「ゼロ年代の想像力」、宇野常寛)。

*21:Kinkyo-1参照(多様体)。

*22:Prairie House参照(ビジョン)。