どこでもドア

最近、生活のリズムが乱れてる・・でも、これは自業自得ですね。先週、怠けてたツケが回ってきてるだけで、プラスマイナスすると総量は変わらない。まあ、夏休みの終了間際に連日徹夜したからといって、一生懸命がんばったことにはならないのと同じです。

そういえば、北京オリンピックは開会式しか見てないような気がする。いつの間にか終わっていて驚いた。テニスは見たかった。

さて、先週の「ファスト新宿」の記事つくばエクスプレスの動画について…あれ、何を書こうとしてたんだ?とりあえず、変なアイデアは浮かんだのだけど、日が経って、今振り返ってみると、やや馬鹿げているようにも思えてくる。

まあ、そのアイデアとは、つくばエクスプレスドラえもんの「どこでもドア」*1と対比させてみると両者で何が異なっているのだろうかという未来(=フィクション)型パースペクティブの可能性で、そこからさらに「どこでもドア」が発明された後の世界(≒空間)をあれこれ考えてると、仕事の作業がますます進まなくなった…「どこでもドア」より「コピーロボット」のほうが欲しいっす、という話はどうでもよくて、つまり、僕の本家のブログ「babyism」の「Integral Project-3」の記事で〜

〜と書いたことと、きれいに接続できるような気がするのです。すなわち、「どこでもドア」が情報空間と都市空間の「乖離」をなくす、「どこでもドア」がないので都市空間が「ローテク」に見える、情報空間は「どこでもドア」のある都市空間の練習場である、等々、ということです。

もちろん「どこでもドア」なんて絶対につくれないと思いますけどね。ただ、つくばエクスプレスの動画を見て、人間の都市工学的な欲望は、最終的には「どこでもドア」へ向かっているのではないかなぁと思いました。

いずれにせよ、思考実験での「どこでもドア」は、距離が消失する先を抽象した空間の一つの雛形、すなわち、ゼロ・ポイント*2のようなものになりうると思います。さらに、「どこでもドア」を想定することで、私たちの(交通)工学的環境は閉じている、有限であるということを確認することもできます。大切なのは、この有限世界の内側での私たち人間の「無限」に属する性質なのであって、今世紀における都市計画は、片方では「どこでもドア」を目指しつつも、もう片方ではそれとは別の何かを含んだものになるのではないかと考えます。

その別の何かの手法の可能性の一つとして、用途混合型の都市を僕は考え続けているのです。*3

(`・ω・')

「どこでもドア」の他に、冒頭のつくばエクスプレスの動画東急田園都市線の動画*4と対比させてみてもいいかも知れません。それから、TX柏の葉キャンパス駅JR柏駅のそれぞれ駅前の写真を対比させてみるのもいいかも。うーん、もっといろいろ書こうと思ってたけど、今日はこの辺で。でも、今日書いた文を読み返してみると、何か内容をぎゅうぎゅうに詰めたみたいな文章でかなり読みにくい、あちゃあ。

(´;ω;`)

*1:100年後参照。

*2:幾何学の起源」の序説、ジャック・デリダ

*3:問題は、これに理論的な「担保」がないということ。とりあえず、「用途混合」に関してはウィキペディアの「Mixed-use development」の「Benefits」と「Drawbacks」を軽く一読してみてください。英語だけど、とてもコンパクトにまとまっている。余談ですが、その「Drawbacks」に書かれているようなことを言及した日本語の文章を僕は一度もみたことがありません。それはそれで問題があるのではないかと思う。

*4:東急田園都市線長津田-中央林間の動画もあった。いまさらでもないけど、田園都市線の「田園都市」の名前はエベネザー・ハワードの「明日の田園都市」に由来する。一応、僕の本家のブログ「babyism」では、「田園都市」を「庭園都市」と書いています。元の英語の「Garden City」の「Garden」を何で「田園」と訳したのかは分からない、「庭園」と訳したほうが人工的なニュアンスがあって、ハワードのコンセプトとも当然合致する。